ふふ。エプロン姿もなかなかの、さっぱり、いいんちょーも登場しっ、実習にてありし友なる身の一大事や、けれど、あいつくんの足取りもかろやかに、、、噴出す血ぃのそこそこの勢いぃのそれありぃの、たまのようにひかる、そのフレームの奥のなみぃだの意味ぞ、いかに。橋田センセイ比においては、ややちょーへん、、、読み応えアリ。
あいくるしや、あいくるしや、”カキゥセイ!?”の驚き、いつ、果てるともなく。やま+やま───。
COMIC HAND JOB初の連載モノ、「皮つるみ」・・・!如何だったでございやしょうか・・・!?雰囲気モノとしてストーリーよりもムード重視で怪しく大仰にやってましたが実質中坊がマスかくだけの話ですな(爆) と、CHJセンセイ、皮つるみ 最終、第7話。
なんのなんの、ご謙遜を。それこそ、CHJセンセイがいうオールド貸本マンガ的なフンイキのリッパな再現的構成、かつは、そういった歴史に埋もれているようなものに着眼するところ、その気質、あなたなるひとの、まぎれもない、ウマミであり、勝利です。ストーリーも、あなたの創作の根本をかすめつつ、けれど、結局は、の、どえらークソバカ方面への───裏切り的要素を幾分はらんだ───展開、オオオチは往年の『コマン』を彷彿とさせるもので、冴えてるんだか冴えてないんだかよくわからないキメで、いっしゅのお家芸かしつつあるのかも知れませんし、、、イイです、イイです。そこに、意味も実体も、あるんだかないんだか、なる、脱力系の。言葉もんの。自慰の内的宇宙のひろがり、ものの歪み、時空のよじれ、、、の、あそびある表現、ああいうのも、表現者としての、あなたの勝利です。ちなみに、オレにとっての、CHJ作品、今年一番は『MURDER COP』ですっ。
はいっ、くれおでっす。いきましょう!
わが両の目にうつるマンガ、アリカせんせい、『KingdomRED』第3、5話ということで、、、”little knights"!
どーでしょー。やや、こころ動かされ。石工の、見習い青年と、ひげたくわえた年季の入った親方と。いい感じの話のようで、でも、ライト(軽い)かなぁ、と。オレ自身は、ややこころ動かされ、なんですけどね(あくまで)。でも、こういうライトな描き方で、ちゃんと感動できひんおれの方が悪いんでしょう、こういうので感動するほうが、たぶん、、、いい。でも、もっと、断絶した現実、、、みたいなもんが含まれてると、おれなんか、なお、お話にからめとられると思うけど。その、親方と、見習いボッチャンの様子とかでも、もっとねぇ、、、、それぞれが物事の当事者であることって、もっと残酷に、お互いがお互いに対して不透明であるように、機能するもんじゃないのかなぁ。それからすると、やっぱり、、、みんな、自分たちの立場に対して客観的で、平和すぎるのかなぁと思ってしまいますね。あらかじめ、あとでうまくいくための不和が形作られている、っていうね、そういうニオイがしちゃいます。作者センセイの、軋轢の編み方と、それをほどく手つきが、ともに簡易すぎるなぁ、と。ってまあ、ひねくれもんのあっしは、、、思うわけですけど。そういう意味じゃあ、ちゃんと、ライトな感じとして成り立っていて、、、でまあ、おれなんか、そういう性質に、単純にあこがれたりもします。
お城の改修工事みたいなんで、ものものしく、足場ががっつんがっつん組まれ、持ち場に散った職人さんたちがある静まりとともに作業に従事している、、、みたいな、そこではまるまるページとってるような絵があるんですけど、ああいうの、、、まえにもお城の絵がよかったっていってましたけど、、、とっても、いいですね、アリカワールドの物語の、およそそういったわかりやすいありようから、一歩二歩と抜け出る感じがして。人物の姿形は端整で、よく描けてて、あるしゅ、型みたいなんもんに忠実で、それでいて、まえに出てこない気がしますが、黙っている物(ちからのこもったその城とか)の絵柄とかの方が、見てて、パッと、こころが晴れますね。キマッてる───、って感じ。そういう絵の方が、物語の流れゆくさまよりむしろ、生きてること多しなのかな、と。
さて、わがめにうつる”ツぅもツぅも”(#128)の方は、、、。そりゃあしゃーない、ああ、おいしかったら、そりゃあしゃーない。そりゃあ、そー、だッ。イっギ、なーーーし。
はいっ。ふぐるまセンセイ『新撰組三番隊異聞 ハジメ』。文久二年、江戸のことだそうで。歴史かすめる、かの有名隊々員ハジメ殿が身上の、のっぴきならぬ事件の模様が活写されてありました───正々堂々とした絵、それ、あやまたず、あやまたず。───こちらも───異聞であるとはいえ、正々堂々として寸毫も逸れない話の骨格・筋道、逃げも隠れもせず、、、といったあんばいで、ただ、べったりと、べったりと、実力が堅実に繰り延べられている、ってな感じです。力量があるひとは、小手先でなにをする、、、ということもないわけでして、、、またその要の生ぜず。まあ、なんだか、横綱相撲の風格を呈しているんですよね、このひとの作品。”悪いおじさん”にしろ、この”異聞”にしろ、きっと、続きを描こうが描くまいが、といったところなんでしょう。描くまでもなく、描けること(その力量のほど)がもうすでに明かされている、、、みたいなもんですからね。それぞれ、特徴具す世界の出発点としての、第1話くらいさえかきゃあ、ね、それでじゅーぶんッ、作者センセイの趣味志向的な、ある対象への描きたい描きたい欲もとかく果たされ、、、というようなところなんでしょう。あえてそこに自身表現すること逃すまじといった必然性のかたまりなんかがあるように、2話3話と描き継ぐまでもなく、、、ね。作者センセイは、作品より、ずいぶん高いところ(あるいは離れたところ)にいる気がします。自身の活動を含めゼンブを俯瞰しつくしてる感、、、そういう意味じゃあ、余裕的、高踏的マンガ、といえるかも知れませんね、およそ、、、その面白さについては、正々堂々とした、テッパンといえる、、、気味合いの。
さらば、ここで一句───、
一声で 事はたるなり ほととぎす 鬼角
(ふぐるまワールド、その適格に寄す)
いらっしゃいませ。くれおですっ。よくおいでくださいましたッ。
さきほど読みました、岡崎統久センセイ『DARK GRAVE』過去編2「existence」。
なにげに、卓上に、愛想もなにもなく皿に山盛りにされたニボシ、ゼぇンブ食べてるし、ヨハネ<笑>
ジェイムズは僕をかばったせいで死んだ、、、 君が慕っていたジェイムズを奪ったのは僕だ、、、、、、
でも
そのおかげであなたは今、ここに存在しています
ジェイムズお兄ちゃんが救ってくれた命を、これからも大切にしてください
──── そして
その「闇」にのまれてしまわないように ────────
と。
これ、慈愛、、、とかでしょうか。宗旨的なものの、功徳、というか、そうして、リッパに、そしてけなげにも、修養された人格の、、、一瞬のきらめき、、、みたいな、ね。世間にて、その、呪われた運命のもとにて、はからずも、キツクキツ~~~クそう磨かれてしまった、自他それぞれをえぐりこむきびしさ、、、ここでは自分を責める気持ちに、、、ヨハネなるものが突き出す、そういった一種のとがりようを、いっそまるまる包み込んでしまうような、、、アンナさんの、ヨハネに対するありよう、、、、、、。といって、彼女とて、ちょっと見えなくなった向こうの物陰とかで、身を崩れさせるようにして、泣いているのかもしれませんが。いや、これまでに、そうして、無数無限に泣いてきたのでしょうが。
旧作もおおいに動員して、”番外編”と題して、『もゆもゆ先生集』のようなものが編まれていましたが、、、どんづまりで、もゆもゆ先生はくじらの仲間だと思います、、、とかいうのを目にしていて、おれはいったい何をやっているンやろう、と思いましたが<笑>
ときどき、同じ気持ちを読んでて抱きますのが、こちら、大CHJセンセイ、『皮つるみ 第六話』。
いよいよ大詰めですね(全七話だそうですから)。前回、自慰の先の死なるをまぬかれる唯一の法こそ脱童貞なりと告げられ、それが失敗に帰し”玉のでた”模様からして、ああ、センズリくんの身の破滅よと生硬にも下したわたしの結論のありようをすらりとかわして、脱童貞は、クラスのそのマドンナ(まぶしく、形相の歪んだ大暴力女)とのものだけにあらず、意想外なる別ルートが、、、どうやら、じっさい、採択されつつあるみたいです。そうきたかっ、みたいなね<笑> 、、、、、、なるほどォ、、、、、、。
はい、筒井哲也センセイ、『DUDS HUNT』。これはよくでき系ですね、といいますか、、、。専横な上司に不条理なほどに(???)鞭打たれつづける、、、くさくさした、密閉世界的な日常から、それに連なるとあるゲーム的規則世界にひょんなことから飛び込んで、そこでまあ、いきいきと、ちからを行使し相手プレイヤー(現実のひと)の血のりをぶちまけつづける男のすがたを描いておりましたが、、、これ、さきはどうなるんやろうという、どっちかっていうと、皮相的な興味にぐいぐいとひっぱられて、、、で、絵も、見せ方も、よく出来てて、たいそう完成度が高いので、、、っていう。ルールありの略奪しあいでの、格闘場面とか、迫力、あります。多様性、うかがえます。まあ、話の骨格は、別して、目新しくもないようでしたが。しあがってるぅぅぅ、って感じです。マンガとして。柵のうちがわ的に設定されたゲーム内世界、これ、街中とかでふつーに行われるんですけど、これと、その外がわ、現実とのかかわりが、ちろちろ気になってたんですけど、まあ、そういう点での、オチつけもあり。なにか現代の、社会性をかすめつつ、の、娯楽風味の勝つ作品に仕上がってる、って感じです(なんでやねんッ!要素も、ちょこちょこ見受けられましたが)。
わたしとしては、ちょいひさの、トークワールドが新鮮やったし、また、相変わらず、かなしくて、やさしくって、ちょっとたのしい、、、そんな、トークワールドのフンイキとともにあれて、とても、よかったです。
こんにちはっ。どうもどうも! それじゃあ、、、いきましょうッ。
橋田さんち、ふたり遊んでます(最新話、第47話)、、、ボールで。、、、いつものように。これがぁ、サイコーッ。うぇす!
アリカ・ワールド三ぱつめ───は、なんか、ひとっけもまるでないような岩山や木々の茂るところにひとりでいきのびよそしておのれのもっているものをみがけみたいな感じで父竜族に置き去りにされた主人公・子竜族が、そこにて生を紡ぐおおかみの群れみたいなんにがんがん襲われたりしてました。しかし、あんまし、怖さは感じなかったので、やっぱり絵としてよく出来てるけど、なにかの意図を伝えようとしている絵ではないなぁみたいなことを思っていました。客観的によく出来てる、、、見るにじゅーぶんな絵やけど、伝わる絵・構図・展開ではないなぁ、とか。もっと、野生の生き物のこわさとか、つたわってくりゃあいいんやけど。そういう風ではなかったですね。
して今回、作者センセイが材料を運ぶ手並み、その、、、ジルヴァーン(子竜族)のひとりでの奮闘とか、竜族の血にまつわるオキテとか、、、それら物語に、ちょいと、ついていきかねるところがありましたかね(不消化感、、、)。ほいで、岩化(?)しつつある、巨人の挙措なんかにはあんがい、その巨人のおおづくりなる外貌に反しての、ねちねちちまちましているような趣あり、その辺がなんかちょっと、むしろアヤアリな感じがしましたが。
、、、あかい玉でちゃいました、、、CHJセンセイです、CHJセンセイ。あー、出ない方向をこころから期待していたんですが、、、出ちゃいました、、、。となればっ、あとはもう、出たらどうなるか、、、それが予告されていたとおりに、ジェットコースター式に、ゼッタイムザンに、そこへと向かって、CHJセンセイの悪魔の筆が、スンラスラっと運ばれていくンじゃないでしょーか。、、、ダメでしたね、センズリくん。ともだち・マスカキくんの忠告を受けて、かれなりに───それでも───バカまっしぐらなその行動はあったんですが、”皮つるみ”を知りそれに溺れた、、、かれ自身の、運命の軌道を変えるには至らなかった。───と、かってに言ってますが、まあまだ、はっきりそう決まったわけではないですが。
筒井哲也センセイの作品、いきますっ。まず触れてみました、『友美さんの休日』。、、、なんじゃこりゃ、とはもうしません。現代風絵柄、たとえばそれなる部屋模様、現代装置に現代感覚、、、短編さんでございます。異性たる、マンション暮らしのひとりの女性の生活するさまを、傍観的にレンズを通してのぞきこんでおります、ひとりの男性、、、。さぁ~て。登場する人物、、、そのたたずまいに、ひとという、絵柄上の記号的造形以上の息吹をあまり感じません。さして生きていない、、、かな。内容的に、あるしゅ、乖離した人格、もしくはそれであるところの行為、または、そういう、社会的傾向(多数性)が打ち出されてあったので、だから、まあ、内容に沿っているということで、それでいいのでしょうか。ここにあるもの自体は、わりかし、シンプル(古典的)だと思います。では、この先に、、、この短編のさきに何があるのか、というところになるのかも、知れません。そういう意味じゃ、ひとつの、予告、または、兆しのような作品。なんか、もう、げんざい、プロのような方みたいですけどね、雑誌の連載とかしてるみたいで。───で、もうひとつ、ひらきました、センセイが世界、『FOOL’S PARADISE』。バーチャルの世界に、、、う~ん、蝕まれる男性の様子、そういう仮想的な営み(ゲーム内恋愛)が、現実におりてきてまあ、境界喪失的(無分別)になってしまう、、、みたいなのが描かれていて、こういうの、なんか、表現するなりのシンジツがあると思うし、わかるんやけど、バーチャルの現実感も、とくにない、、、ですね、バーチャルの現実感なんて言えば、ちょっとおかしな言葉になるけど、総体に、現実感が不足してる、だから、いってみれば、現実の迫力もないし、バーチャル世界の立体的な厚みもない、したがって、両者、生煮え、みたいな。こういうのを積んでいくさきに何かがあるのかも、、、とは思いますけど、この作品に限っていやあ、習作感がつよい、、、ですかね。ぎゃくに、でも、それをさえひとつの特徴としてとらえれば、両作品とも、どちらの世界にもいききれない、そしてどちらともにふらふら出入りしさまよう、そういった生命力を感じさせない人格がうごめく、世界の半端さ・重みのなさ、みたいなものがよく出てる。それは、ヒニクなものやと思うけどね、人間の表現としては。はからずも、作者が作品に裏切られるようにしてさえ、表現されてしまっている、といったたぐいのもので。
くれおですっ。こんにちはっ。すっかりぃぃのっ、暑さですね。
いいところで終わってるなぁ~~~(げんざい)、かのドリスクの、おしむんしセンセイはその過去作だという、、、『ガボンズラ伝説』。
そうです、そうです、、、おしむんしセンセイの織り成す絵世界は、基本、あかるくって、かろやかで、、、。わかりやすくって、的をちゃんとしぼってあって、そういう意味じゃあ、とても表現としてスリムで、世界が、きれいきれいにととのえられ、飾られてあります。いざ、飛び込めば、、、何頭身というんでしょうか、、、からだに対してよくよくおおきな顔、そして、そのかおのなかでも、まんまるくって、とてもおおきな目が世界に浮かび、、、少年たちは、ほんとうに、じぶんたちなりの世界を、映し出すものも少なく、ふわふわと、まるで綿菓子のようにでも、生きていることが伝わってきます。かれらを囲む、、、木々も、草草も、家々も、現実感覚を自分自身のカラであるかのようにぽーんとぬぎすてて、なお、かれらなりの世界である上、木々であり、家々であり、草としてあるかのようです。
パックマン型にまっすぐに分けた髪に、水牛角のにょっきり突き出たおおきなぼーしをかぶり、ローブみたいなんをひょいとひっかけ垂らした、、、さる村の、、、男の子タマが、世を騒がせる大人たちの悪さに、たちあがります。
かれに、ともに正義のたびへと誘われつつ、バカじゃないの式に一旦は拒否しながらも、しかし、タマとわかれて過ごす家での時間が、、、パパもママも都会へ仕事に出ていて、、、あ~あ時間が、時間がありあ・ま・る、、、ってんで、とりあえずかれのもとに戻ったかわいらしい女の子ロロカちゃん、彼女こそが、よこの男子、夢のようなかわいらしいグッズを身につけ、んで、夢のようなことを一途にいいはなっていっかな臆面もない───そのタマに、彼女なりの思い、現実要素のようなものを注入している模様───、そのやりとりが、こちら───、、、
タマ「大人って生き物は悪いやつが多すぎます。/ このままでは僕達子供の未来も危ない! 何色にでも染まってしまう白いキャンパスのような心が、悪い大人達に汚染されてしまいます! 今こそ立ち上がって未来を守りましょう」
ロロカ「そんな物騒なこと、言うもんじゃないわよ。あたしは今の世の中でも特に不自由してないわ」
タマ「自分の周りだけ平和ならいいだなんて、自己中心的な考えですね。冷たすぎます」
ロロカ「別にいいわよ、自己中で! あたしじゃなく他の人に頼んだら? 村の悪くない大人とか、、」
タマ「ダメです!」
──────────────
タマ「問題はどうやって悪い大人をやっつけるかです。強力な武器を手に入れるのがベストですが」
ロロカ「ちょっと待って! アンタそんな本格的に大人と戦うつもりなの? 子供が武器なんて使ったら危ないでしょ。本気で革命家みたいなことするつもりなら、危険すぎて笑えないわよ!」
ただ、、、悪い大人たちをやっつけるという、、ふわっとした、思いだけがあり、漠然としているタマの様子に、具体性をもたせ、方向性を示しているのは、むしろ、タマとの対話での、このロロカちゃん(の現実性)でしょう。彼女はタマの武器ということばに反応し、それをいさめながら、武器をより体制・反体制の歴史的響きなんかのこもる”革命家”なんてワードにむすびつけ、ふんわり風味のタマの正義のたびのおさまるべき範囲を、むしろ、牽制的に示しているかのようです。
このふたりの会話は、おしむんしセンセイの夢世界にあって、けっこう、特徴的だと思います。おもしろいンです。
タマ「でも僕達みたいなごく普通の子供は、体も小さいし、パワーも財力もなくて、脳味噌も成長中。武器でも使わない限り大人に対抗する術なんてありませんよ!」
ロロカ「うーん。/それでもナイフだの鉄砲だの武器はダメ! 子供はもっと夢のあるもので戦わなきゃ印象が悪いわ!」
ころころと遊んでいるような、ロロカちゃんの言葉は、作品ルールを告げる、作者センセイの言葉そのもののような。武器を使い殺戮破壊は、、、とかではなく、そういうのは、印象が悪いと<笑> ロロカちゃんとて、すこし、宙に浮かんでる(あるいは浮かばされている)んですね。
ゆめ風味と現実風味が、しーそーげーむを繰り返してる。
で、村に伝わるおとぎ話の、、、裏山のドラゴン、、、を、まあ、タマはかれらの武器として、使おうと向かうわけですけど、で、ついていきながら、ロロカちゃんは、内心、”可哀想な子、、”とか思ってる、、、まあ、いってみたら、小さな、トカゲみたいなんがいる、現実はそれで───タマはショックを受ける、、、で、ここで終わりじゃあありません、作者センセイはそののち、ドラゴンを登場させます、それはけっこう、強烈です、そうやって、しーそーげーむは続いていくわけですね、否定しといて、けれど、まあ、大々的に、ドラゴンを出しちゃう、ドラゴンの登場は、あるしゅ、(タマの)夢が咲いた見事な瞬間でしょう、けっこう、したたかに、作者センセイ、現実風味をとりいれながら、そういうことをするわけです。
この、ドラゴンの登場をみてください、すっごく、夢を負っている、ステキな姿です。
出来上がってるうちの、最後のところでは、タマが、たまたまであったひとりの悪い大人を、なんと、勇気をもって、棒切れとかで、叩きのめします、しかし、、、そこで示されるのは、悪い大人をやっつけたぜっ、ハッピー!!! 的なものではなく、、、また、作者センセイの、現実側への揺り返しが起きているような表現になっていて、つづきが気になるものですが、最新分は、そこにて終わっています。
、、、ここには、あんがい、作者センセイの、粘り強い思想みたいなものが宿っているように思います。大作”ドリーミングスクール”よりは、すなおで、わかりやすい形で。ふわふわした無重力的な夢の遊びの世界と、重さをもつ現実世界との揺れあい、、、を、おしむんしセンセイは、あくまで夢世界として描いているようなのです。とてもかわいらしい世界、、、表現は、スリムで、的確です。そして、ほんとうに無邪気っぽく、かわいらしい見た目のなか、そうやって無防備であるかのように読み手に隙を提供しながらも、あんがい、作品内は充実していて、したたかなような感じがするものです。
そう、、、最後に、パラパラ読み返しててちょっと面白かった箇所、、、妖精ポン・チャーリーと、ロロカちゃんの会話を。
チャーリー「現代人はひどい! 大人ならまだしも子供まで僕の話を信じてくれない! まったく現実的で可愛くないクソガキどもめ!」
ロロカ「だってしょうがないじゃない、この世界に裏があるなんて科学的にありえないわ」
チャーリー「科学的ぃ!? なにそれ! 自分で確かめたワケ? 君みたいな子供が一体科学の何を知ってるっていうんだ! 自分で研究したわけでもないクセにエラそうに科学的に科学的にって言うな!」
さて、こういうやりとりのとき、おしむんしセンセイはどこにいるんでしょうか。ロロカちゃんがわ? チャーリーがわ? そもそも、どういう気持ちで、作者センセイはこのかわいらしい世界をちくちくと編んでいっているのか、っていうところ、、、ですね。それはビミョーな感じがするし、そこがまた、たいそう、おもしろい。変にこわばって何かをでーんと主張する人間よりも、作者センセイは、もっとやわらかくって、夢と現実の問いにたいして、実践的───、そして、かくあり真摯です。
ひきつづき、アリカ大センセイ『KingdomRED』、本日、第1章”DRADON STILL SLEEP”は、第2話───その名も”異形の王”。
前回不肖わたくしの言、、、ふくらみがない、通俗、、、さてもさても、なんのなんのの今回第2話、ぽわっ! とお話が広がりをみせます。
開始早々の、お城の絵に、魅せられます。、、、やってくれます、作者センセイ。
まえのお話の様子として、竜族の子を突如その父があらわれ連れ去っていく、、、とあったのが、今回はほんのしっぽくらいの扱いで、比重はまったく別のところにうつりまして、舞台はラングディア王国はその都にしてさっきの威容を示されたそのお城、、、バランドル城、ですね、ラングディア王家、、、子息あり、父王が懐深そうな明君っぽい方なんですが、顔にやけただれようなあざのひろがりのようななにがしかのいわく、、、過去、、、を背負っていて、それが当人にとっての爆弾のようなものとしてあるみたいで、人知れずそれに悩まされるさま、尋常じゃない、かれの息子アイロスはヤンチャっぷり満点にはねまわって、あるいは厨房のつぼに虫の幼虫みたいなんをいれたりなど、いたずらしたり、城をせましと活躍している様子ですけど、王に次ぐ権力を握っているらしい老(57歳)執政官ベルガンドなんぞはかげでなにやら動いておりまして、かれの呼びかけでか、反乱分子らしいものが集まりつつあり、、、国内権力者周辺の様相は穏やかじゃあない、、、今回タイトル”異形の王”ということで、まあ、王の顔の片側が前述の通りそうなんですけど、なんか、異形の一族みたいなのをバランドルの都から地下かなんかにすべて追いやった、、、みたいな歴史あり、王はその解放をのぞんでいる、、、らしい、まあ、この、ラングディア王国に、主人公ジルヴァーンの父、ラスヴァーンがかかわっている、王に、おおいに協力している様子で、、、かように、前回から、舞台がぼわっとうつって、かのラングディア王国を軸に、造反の様子だとか、異端の民だとか、まるで違う群像模様・大陸的お話模様がひらけてきました、、、作者センセイは、たのしみつつ、こういうの(入り組む人間関係だとか、竜族にまつわる伝承だとか)を、創造してはるんでしょう、ものがたりに、たのもしい、骨太感が出てまいりまして、ちゃんと読み手を感じ入らせるものがあることをつよく感じます。線の細い、点・突破的な、ふくらみ云々のおれの言い分なぞ、一蹴するかのような趣の、、、包容力(ひろがり)を堂々披瀝した、第2話───、になっているんじゃないでしょうか。
それにしても、なんか、絵が、いいですよ、贅沢に書き込まれてる感じなんかもよくよくし───。ときどき、もったいないな、と感じるくらいの。コマうちにて、描かれたものたちが、あふれかえらんばかりの。一方、ちゃんと絵の充実に対して相応に、大きくコマをとり、キマッてるような瞬間も、あり───。
ややくだけたところみせる近衛隊長ダナン、副長のウォラス、さきにのべた野心秘めたる執政官ベルガントに、かれの息子として執政官補佐役となった父親譲りにて狡知にたいそう長けてそうなイズラール、そして、ちょっと冷たい感じのする女執法官キサンドラ、、、、、、、などなど、それぞれ体重の地にかかった、たくさんの人物たちがあわられ出てきたんで、ンで、かれらが、今後、さまざまな思惑や言動をうちかわしあいながら、この世界の動きを、織り成していくのでしょう、、、かく、物語エネルギーの充填が、ちゃくちゃくと進んでいる、、、そんな印象です。
なおわたくしも随行してみようと───。明日に、まだまだ果てしのない先行きをもつ(あるいはもちそうな)、、、はるかなる、、、アリカ世界の方へ。
くれおでございます。ようこそ!
本日ケンキュー、、、対象はアリカせんせい『KingdomRED』、それの、第1章”DRADON STILL SLEEP”は、第1話”竜眼の少年”。
た、大作みたいですね。現在12話まで紡がれているみたいです。第1話にしろ、読み応えが、ありました。
不死竜なるものの力をわけあたえられ、かかる、、、不死竜を守護してきたという、竜族のほんのわずかの生き残り、、、たる身の、幼きジルヴァーンが、母親と、人里はなれた森にて、暮らしておりまして、、、やがて、迎えにくることを告げていたまさにちょうどその時───12年の経過したその後!!!───の今日の日に、かれの父が、ぬっとあらわれ、およそ、竜族たる身のこと父親のこと(詳細)うんぬんをなにも聞かされずまあきいちゃいけないことといつか悟って聞くともなく成長してきたジルを母親のもとからひきはなしつむじ風にでも巻き込むよう連れ去っていく───的な、劇的なことが、、、。
さあ、これからどうなるんでしょう───物語の幕開けだッ。
絵がもう、みっちりしてますね、空疎でないし、過剰でもないし、あんばいよし。コマの配置とかも、空気を吸い、自由に、おどってますね。風通しがいいです。話は、まあ、第1話読んだだけですから、あれですけど、通俗的、かな。紙の上のこと性がつよいかもしんない。ただまあ、ひるがえって、ふつうにひとにつたわるでしょう。説得するだけのものは作品のなかにこもってる。竜族とか、額に第三の眼(竜眼)がひらいていて、異端として排斥されるのを恐れてひっそり森のなかで母親と二人暮らしてるとか、まあ、十億回くらい話に用いられてきた要素でしょう。まあ、紙の上のこととしては。
ひとがひとをすきになること(恋愛の様子)とかね、まあ、基本的な、人間の夢想のかたち化(ファンタジー)とか、これからも、数限りなく同じようなものが繰り返され、表現されていくんでしょう、通俗って、ひとが基本的に生きること、その道やから、それでいいんですよ、人間という生命体の基本的構造がかわらない限り、人間が生きる基本要素もまあ、同じようなもんやろうから。それにつながっているわけですね、通俗的表現というのは。これは、たしかな地盤でしょう。この作品、見てたら、およそ、絵も、見せ方もちゃんとしてるし、話もさきに述べた意味で通俗的であって(まだ1話読んだだけですが)、しっかりできてそう、あとは、この紙の上のこと的な通俗的マンガ表現に、どういった点に、どれだけ、膨らみをもたすことが出来るか、っていうところが、ひとつの勝負なんだろうと思うんですが。
たとえば、息子をポーンとあずけ、経た12年、、、12年って、ちょっと、のっぴきならない時間のはずですが、とりかえしのつかない、そういう、12年の重み、12年という時間の具体性、ひろがり、ふくらみ、、、みたいなものは、今回読んでても、ほぼないですね。竜族という珍しい身の上にあって異端視される、、、という様子なんかでも、ジルがさいしょ、遺跡みたいなところでひとり遊んでいて、そこにグループであそんでる子ぉらがいて、まあ、あっちいけよ、みたいなね、いろいろ、やりとりがありましたが、ああいうのも、そういう記号ですよね、よくみた、よくある、よくまあ、、、流布した。紙のうえの通俗的表現として、及第点かそれをいくらか上回るものだということはわかりますが、とりたてて、そこには創造的なふくらみはないかな、という感じ、ですかね。まあ、例示しているばかりなんですが、12年にしろ、異端にしろ、そういう、記号を超えた読んでてこっちがおっと足をとられるような深み、とでもいうんですかね、そういうものの気配が希薄なんで、立体的にならないですね、読み物になる。読み物上等! まあ、いかにもそうなんですけど、読み物において、読み物以外の可能性を探ろうとするならば、ということ、ですね。
わたし自身は、平坦な読み物がいくらか苦手なんです<笑> いのちの、、、人生の、、、秘密を、そのひとの人生だけが掴んだこの世の真実を<笑> いくらかでも、そっと打ち明けてくれたりしないと───アリカせんせいのこの大作、ひきつづき、ケンキューしていこうかな、とおもぅとりやす。
こんにちは~! くれおですっ。
本日感想は、中田多哉センセイ、『後日』。
これ、あれなんですよ、”許容範囲”の、後日、なんですよね。で、許容範囲って、まあ、常識的には、肉体関係は異性同士、これですね。つきましては、あるふつうの学生の、そんな許容範囲が侵犯される。で、今回のさいごのコマとか見る限り、もはや、あるしゅの気持ちよさを汲み取ってしまって、ありかも、くらいの表情になってしまってますね。どうあれ、かれの、許容範囲は侵され拡大しつつある、とみて、いいでしょう。ものごとの導入のさま、が、よく描けてますね。さまざまな事柄において、わたしたちは常識的なそれにとどまり、あるいはどこか事件的にでさえ、かれの身に起きたことのように、ときどき、常識的なそれを踏み越えた範囲をもつようになる、、、と。すくなくとも、主人公のかれはそうなっているようですね。関係構築の具体性とは、一般観念的な常識ではあまり測れないし、どんな状況でも、死なない限り、ひとは相応に、なにかを感じ、なにかと結びつき、それなりに、平気で、適応していく、、、そんな、さまが観察できますね。おもしろいです。
もうひとつは、この方、CHJセンセイ『皮つるみ 第四話』。
なかなか危ない作品になってきてるんじゃないでしょうか。オナニー覚えて、ひとりでやるその快楽にのまれてのまれて、体液がいよいよ薄まって、このままだと(赤い玉が出て<笑>)破滅である、という状況の、主人公センズリくん。なにが危ないかって、CHJセンセイって、COMIC HAND JOBってお名前なわけですけど、これ、マンガ(COMIC)と、あと、HAND JOBって、オナニー、なんですね、マンガのそれ、なんです、CHJセンセイ。まあ、CHJセンセイにとって、マンガ創作がつまりそういうことなんです。危機的でしょ? センズリくんのそのマンガのなかでの危機は、マンガの外での、作者の危機です。これは、なかなか、この内外が連関して、クリティカルな瞬間を迎えている、、、かも知れません。センズリくんに忠告される、ゆいいつ、オナニーを抜け出す道は、童貞を捨てること、これは、マンガのそと、CHJセンセイにとっては、さて、一体何を意味するのでしょう。
冒頭に付された言葉で、「COMIC HAND JOBの”現在”が詰まった全7話」だというこの作品、はたして、いかなる命運をたどるのでしょうか。CHJセンセイが平気なこころの状態でこの作品をつくってはるんやったら問題ないですけど、自身の作品の闇に、のまれすぎないように、、、注意してほしいですね。センセイの現在を込めれば込める分だけ、まだ、楽天的筆致で逃げ、まぎれることを可能としていたろう”オナニーくん”のときとは違って、自身の表現の必然性なんかをドリルでえぐりこみでもするかのような、危機的なものになっていくはずですから、この作品は。このまま、ものづくりが、オナニー的なものでいいのかどうなのか??? それは、CHJセンセイの創作自体への問いであって、そしてすくなくとも、作品内でオナニーをつづけるセンズリくんは、このままでは死ぬ、と告知されているわけです。変わらなくば、死と。これは、CHJセンセイの創作についての、なんらかの、今後の、未来への、変容の道を示唆しているのかどうなのか。CHJセンセイの創作者としての死は、もちろん、絶対避けねばならないことですが、とはいえ、ここまで張り詰めた作品をつくってんねんから、自身の存在意義を問いつつ、、、手先でごまかすような、甘い作品にだけはなってほしくない、、、とも、思えます。”アンジェリカ”でみせた、荒唐無稽なほどに純粋な、天を味方にした一流表現者の描く軌跡として。
のこり、3話です───(しかしこのひとは、ほんとうにおもしろいひとやな)。
ようこそっ。くれおですっ。
超プロの作品、第一弾、これです。
萩尾望都・ポーの一族
一冊分、5話読みました。そうとうむかしに、一回くらい読んでると思うんですけど。
パないですな、完成度が。やっぱし。
くるくる髪の巻いた兄、エドガーに、妹メリーベル、とてもかわいらしい(あるいは美しい)兄妹。そして、父親に、母親、、、一家は、ふつうのひとのさまをし、ふつうのひとたちとともにある、、、けれど、のっぴきならない秘密をかかえた、、、存在たち。その世間から隔絶した秘密、、、一家の存在、、、その、内的構造、それの働き、様子、と、世間とのかかわりが描写されてる。かれら或る隠匿した本質をかかえるものらは異端で、それが白日のもとにさらされることは、すなわち、かれらの身の破滅を意味しているので、、、あくまで、あくまで、徹頭徹尾、それがバレないようにしながら、、、生きている、エドガーにしても、メリーベルにしても。
かれらは気をつけないと、鏡にその姿がうつらないのです。油断していると。うつそうと気をつけなけりゃっ。
転校してきたエドガーですが、同級生らと早々に悶着起こし、身をガラスに投じてぶち破って怪我を負う、、、でも、ケガは、わりあいすぐ、なおっちゃうんですね、だから、人間が本来、カイフクに要する期間のうちは、そのままケガしたふりをしてろ、みたいな、父親とのやりとりがあったり。まあ、かれらの存在の、異端の構造がバレないようにするのも、そんなわけで、いちいち、苦労が絶えないのだけれども、しかし、存在すべてにかかわることなので、、、どうあれ、やるしかない、、、ようなのです。
かれら一家、あるいは、かれら”一族”、、、は、ふつうには傷つかぬ(すぐ治る)、ふつうには時間をその身に含まぬ(老いることがない)、───そして、選び抜いたすえの、、、かれら一族への招聘は、その、選んだ相手の、血を吸う、、、そのことによって。
───ポーの一族。たえず、、、時とともにながれゆくこの世、、、ひとびとの間に紛れ込んだ、すぐとなりにうごめく、異世界。はたまた、別世界、時間超越の論理。
この世の時間の原理から抜け出したくは無いか、
どこまでもつづいていく、、、だろう、、、当たり前の日常から。嫌気が差す日常から───アラン! 金持ちのボン、金、権力をまとい、周囲のオトナ、同級生、かれのまとうものにあるいはひれふし、あるいはよだれをたらしてむらがり、そういったものに包み込まれた日常、、、ついには、みずからのこころの流れ来る場であったようなお母様にしてみても、とても生臭い、、、日常のがわへと転落するそのさまをとびらの隙間より目撃し、、、
そこに、かれに、目をつけていたエドガーの引く手が───、
さあアラン! 君も、ぼくの側へ───
時間超越をその身に背負ったポーの一族、、、かれらの実態その様子と、それの世間とのじわりと溶け出すような触れ合い・接触の模様が、劇的に、まあ~~~たくみたくみに、ちょー、完成度高く、ほとんど隙というものがみあたらず、描かれております。
構成や、描写に、隙がない───。コマのほとんどすべてが、質的に、充足している。
で、第1話(示された日付によると1972年10月発表)がそれだとすると、つぎにつづく第2話たる”ポーの村”と題された作品は、順逆をおそらく構成上の配意から逆さにいれかえられて、、、72年5月、になっています。
これは、表題のとおりで、猟に興じていた男爵が、突発的事故から、はからずも、エドガーに導かれ、ポーの村に足を踏み入れることになりまして、、、身の危険にみっちり隣接しながら、その若き男爵は、そこにて、怪奇ともいえる、一族と触れ合い、、、なんとかかんとか、命落とさず、まぼろしの存在のような村より生きてかえるのですが、、、で、のこすわけですね、その、自分の、不可思議きわまりない体験を、日記に。その日記から、逆にひらかれたようにもなっている、短い話。
第3話”グレンスミスの日記”(1972年6月)。、、、もちろん、さっきの男爵の日記のこと、ですね。
場面は、老グレンスミス男爵の死の場面から。そう、若き男爵は、老人に。時は、、、時が、、、人間というものを、ひとしく押し流しきって、運び───。老いたるもの、その身に時の流れを負ったものの今日こそ、今日のほかでもない自分こそ、いつかの、時のかなた。
愛をはぐくんできた、この世界にバイっ───残った日記を多少罪悪感をとらえながらもふざけ加減にひらくのは、グレンスミスのうら若き娘・エリザベス。、、、そこには、ショッキングな内容も含まれているもんでして、エリザベスは鳩が豆鉄砲くらったようにおどろいたり、、、まあ、お父さまの(息抜き的な)創作なのかしら、とか、考えてみたり。常識的には現実としては受容できない内容ですから、ふつう、そんな風に考えるもんでしょう。
エリザベス、、、さる、8つ年上の、プロシア人の音楽家と恋に落ちる、親戚なんかはこぞって反対し、、、とうとう、ふたりは、駆け落ち同然に、イギリスをあとにし、かれの祖国、ドイツへ。
人間を、時間が、具体的な状況が、翻弄する。
戦争が。
こどもたちにも恵まれて、ちいさなしあわせ家庭をきずいていた、エリザベスたち一家にも。
徴用され、じぶんから離れていく、、、愛する夫の、汽車のうえにて手をふるその姿をながめ、涙をながして見送りながら、エリザベスは、直感する───、
この人は帰って来ない
うそつきのトニー
うそつきのトニー
たくさんの約束をして
幸せの
約束を残して
うそつきの
トニー
ドイツは戦争に負け、罪を負い───、
みんなみんな貧しくって、
彼女の娘たちは洗濯場や髪ゆい店で
はたらける年になっていたが、
おっとはそこにいず───
当のエリザベスは病気がちで、臥しがちで、
たまに、イギリスにかえろうか、などと。
けど、いまさら、、、、、、
いそがしい仕事の合間をぬって帰って来て、よこになりがちな母・エリザベスにかわって、家のことをしてくれる、、、次女が、はじめて弱音をもらすように、突如、過労がたたってか、亡くなってしまいます。
祝福され、、、長女ジュリエッタ結婚。しかし、若い夫婦は、ライン河畔をこえて、遠くの町へ。
暮らしていく、、、時を吸い込むエリザベスの存在。しわを、きざみ。
翌年、末娘アンナ結婚。ピエール・ヘッセンという、愉快な青年と。
そして、、、孫が(長男ピエール)が、孫が(長女エレーナ)、孫が(次女ベルタ)、孫が(三女レラ)、、、そしてさらに、4年おいて、四女マルグリット───孫が。
いまや、、、老、、、エリザベスこそが、おさない孫、、、マルグリットに話し聞かせたりしたものこそ、、、ひいおじいちゃんの、、、日記のこと。さらに、、、
母アンナがすぐ上の姉レラの子にふと、グレンスミスの日記の話題を。すると───その子こそが、学友に、同じ名のエドガーがいることを、さらには、そのエドガーにメリーベルという名の妹がいることを、、、と終局で、さらりとなるのですが、、、
グレンスミス、ポー接触、グレンスミス、生きて、年をとり、この世からいなくなり、かれの子が、この世にとどまり、さらに、かれのポーの経験は、日記(物質)となって、生き残る、
日記はグレンスミスの死去ののち、娘エリザベスの手にひらかれ、読まれ、経験され、あるいは、その内容が、娘アンナに、あるいは、その娘アンナから子に、語られる、
みな、生きて、時間を過ごし、生きて生きて、としをとる、この世のものとして、、、ながれゆく、、、
グレンスミスも、かれの娘、老エリザベスもいまや世界にはいない、たまたま伝わったグレンスミスの日記の内容で、さいご、照射される、グレンスミスが村をおとずれたときのまんまのすがたの、様子の、エドガー。時間を受け付けぬ存在をまずはグレンスミスの日記をとおして、さいごはそのものエドガーのすがたとして、配置することによって、そういう無時間的な背景が用意されることになって、、、この世にひとしくすべてに時間がながれるそのことが、浮き彫りになっております、、、ものがたり構築の巧みさもさることながら、そのすべてが通うこの世のステージが、ここでは、時間であることを、描ききっているみたいに思えます。無時間的定点としてのポーの一族(エドガー)の存在が、人間が所属する時間の理法をそのいやおうとない推移を、かえって浮き立たせるのです。あと1話収録されてありましたが、まあ、どうかんがえても、おもしろいですね。すばらしくよくできてる、、、力量が、いかんなく発揮されている、、、という感じで。
いま、第2巻を読んでいますが、ポーの一族、、、エドガー、、、メリーベルにまつわる話が、重層的に、たいそうねばりづよく、描かれております。ところどころで、胸をうたれず読むことがむずかしい。
ちょー、いきなりなんですが、、、
少女雑誌、明治35年創刊、金港堂『少女界』(これが、日本初の少女雑誌なんですって)。
続いて39年博文館『少女世界』、41年実業之日本社『少女の友』。
まあ、明治35年、、、西暦でいうと、1902年、とか、あとは、1906年とか、1908年とか、そのあたりのこと、ですね。いずれも、いまからもう、100年以上前、になりますね。
大正期(1912~)になって、それらに加えて、『少女画報』『小学少女』『少女号』その他アンドその他みたいなんがうじゃうじゃ出てくる(大正モダニズムと呼ばれる文化の時代)。
昭和初期(昭和元年が1926年)、人々のありよう、セツナ的、モガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)の流行、宝塚の人気、、、恋愛、倒錯の時代、、、
ンで、当時の少女雑誌の内容としては、縫物、料理といった生活記事、小説、詩、くわえて、宝塚の写真、映画紹介、悩みの相談室や、お便り欄、といった読者ページ、、、
かくある少女雑誌中、いまの(少女)マンガ(の役)にあたるのが、少女小説と、抒情画、とかいうことで、それは、文(少女小説)と絵(抒情画)ということ(別個ということ)で、そのねりあわせたる、マンガ表現そのものではないんやけど、
少女小説有名どころ、川端康成、長谷川伸、西条八十、、、、吉屋信子、、、
抒情画の有名どころ、竹久夢二、中原淳一、蕗谷虹児(ふきやこうじ)、高畠華宵(たかばたかしょう)、、、
なぁんてところに、当時の、少女たちの夢やあこがれが通っていた、ということらしいんです。
やっぱり、少女マンガが担っている、その、大きなものって、女の子の、夢やあこがれ───でしょ?
内容としては、たとえば、わたしも全然しらないんですけど、吉屋信子・代表作「花物語」、、、
、、、多感でセンチメンタルな少女を主人公に、同性愛をめぐる人間の葛藤を大時代な美文調でつづる、、、
・返らぬ少女(おとめ)の日の、ゆめに咲きし花の数々をいとしき君達に送る!
って感じで、、、同性愛、とか、ンな、美文調とか、ふ~~~ん、って感じですが。
(ちなみに、少女マンガの先駆と呼べるような漫画というのが、松本かつぢ「くるくるクルミちゃん」(『少女の友』で連載)だそうです)
昭和のこと、太平洋戦争なんかが近づくにつれ、そういった児童文化は、オトナたちがコドモたちに与える教育の図式となっていく、、、なかで、読者たる少女たちは、少女小説のセンチメンタルに、あるいはその内容の同性愛なんかに酔い、または、美しくハイカラな、少女挿絵に自分たちのおもいをのせていた、───と。
で、戦争突入、そしてそれのさらにさらにの激化、、、出版物はそういった最中、統制を受け、軍事色一色に塗りつぶされていき、、、
昭和19年、出版企業整理の結果、児童雑誌は『日本ノコドモ』『良い子の友』『小国民の友』『少年倶楽部』『少女倶楽部』の五誌に統合され、、、それらもほどなくして、消滅。
───昭和20年8月15日、日本敗戦。
進駐軍とともに、アメリカ民主主義なるものが、日本に。
一方で、日本人らしさ(たとえば時代劇、たとえば柔・剣道)は抑制され───。
ひとびとは娯楽を求めていた、、、が、紙は統制品、、、
そんななか、大阪の、闇市を中心に、”赤本”と呼ばれるソザツな本がつぎつぎと刊行。
たとえばマンガはこの、赤本として復活する。
で、知らないひとはいない、、、的な名の、そう、、、手塚治虫超プロの『新宝島』がこのときにバカ売れ。そうしてこの方が、当時の、赤本ブームの人気の頂点にいた、、、とかいうことらしいです。
そして、この、赤本ブームと相前後して、児童雑誌の復刊や創刊があいつぎ、、、
───みたいなことがぽろんぽろん書かれてあり、う~んおもしろいなぁとうなりながら、さいきん読んでおりましたのが、故・米沢嘉博ハカセの『戦後少女マンガ史』というやつで、で、そっから、現代につらなる、少女マンガというものの地平を切り開いてきたろう、作者あるいは作品について、なんじゃかんじゃいろいろと語られていくんですけど、そういうのを読むと、実際、じぶんで読んでみてどんなもんかいな、と、オレなんかはすぐその作品・実物に触れてみたくなるんですけど、で、いろいろな作者の名前に対して、たしかにそんな気持ちが喚起されてたんですが、なかなか、おいそれと手に入りそうにないマンガもいっぱいあり、、、、というなか、手にすること可能なものを、ちょいちょい、実際、読み始めたんですね。Webマンガ読み始めてから、超プロたちの作品からはずいぶん遠ざかっていた身なんですが、ひさびさに。まあ、いってみれば、少女マンガ史における、巨人たち、ですね。で、この超プロの作品(いちおう、少女マンガに限らず)も、読んだ後には、当基地の作品の交錯のなかに、いれていってみようじゃないかと。間違いなく、ツヨイでしょうけど<笑> 一面としては、すでに歴史的なものであって、古臭いものでもあるはずなので、Webマンガの”なま感””いま感”の勢い・強みをもって、ぜひっ、倒していただきたい<笑> 一応、考えたルールとしては、超プロの作品は、───たぶん、おれは、けっこう集中的に、ひとりの作家の作品を連続して読んでいくと思うんで───さいしょに読んだ一作だけを、いれることにしようと思います。そうじゃないと、順位付けが、超プロの作品であふれかえるようなことになると、あんまりおもしろくないと思うので。
そこで次回は、さっそく───、昨日とか今日とかに読んだ、、、超プロ参戦組み二者の作品についての感想を(うまく書けるかどうか、がありますが)。
ひとりはいまもなお現役バリバリのチョー有名人、もうひとりは、、、この名前、どーかな、知ってるかなぁ? っ感じの人で、、、現代の繁栄している、、、たとえば今回なら少女ものの、その、、、漫画の底にあるのは、まあ、こういう歴史とか、そういう、作者さんたち、、、なんでしょう、たぶん。こういうひとたちをいれることによって、作品の交錯に、すこしは、歴史的な厚みが出るかもしれない。くわえて、私自身がマンガについての知見を深めていくのにも、Webマンガなんかだと、おおくいきあたりばったりで読んでるんで、そこは、マンガの目利きがとらえた作品・作者ということで、効率がよっぽどいいでしょうしね。
さきほどまで、ある世界に迷い込んでました、くれおですっ。
迷い込み先は、『GARDEN』、ガムせんせいの手になる世界です、、、。
サインペンで描いたような(表現として、あってんのかなぁ)世界。
妙に、落ち着いていますねぇ。話の様子、絵の、置き方みたいなのとか。
まあ、ガーデンがあるわけですよ、空にたいして、ひらけた、、、ビルの屋上に位する。出入りする少年が、あるいは少女の姿が、ひとり、ふたりと、そこにはありまして、、、なんか、精神的空間みたいなんがひらけてますね、かれらの、問題をはらんだ実生活に対して。逃れ場、休息場、、、の象徴、みたいな。そう、、、ガーデン、ガーデン。
うまく描き過ぎ感がちょっと、しょーじき、あるかなぁ。うまく作品にしすぎ、っていいますか。お手本どーり、みたいな気持ちを呼ぶところがありますねぇ。現実と、作品、が表現その化合の基礎だとすれば、いまいったことは、作品 to 作品、な感じ、、、とでもいいましょうか。ずいぶん、いいあんばいで出来てると思うんですけど、現実がよわく、、、したがって、取り扱ってる大変な個々人の人生の様子の、その、本気度みたいなのが、不明化するようなところがある。それらが、作品のための(単なる)素材なのか、と。なにか、既存のマンガ表現へと、翻訳しすぎなんじゃないですかね。けっこう、大事なものが、作品のなかにはいっていないようなことになってるんじゃ、、、ないでしょうか。読んでて、、、うまぁ~く、出来てるんやけど、作品の必然性を感じない、、、というか。ところどころで、あるいは、ほんのすきますきまで、なんか、くずれてる。
ひとの生命についての問題って、どんなことであれ、オリジナルであるほかないと思うんですが、それを絵にしろ、話の運び方とかにしろ、一般化・記号化しすぎ、、、なのかも知れません。取り扱ってる、闇を含んだ中心的題材と、表現世界、
が、どうも、しっくり来ません。ここに描かれていること、作者センセイが描こうとしていることって、もっと現実よりに明確なイタミを感じるようまみれて下がるか、もっと理想世界よりに透明化するようにでもして上がるか、またはそれら極をいったりきたり、、、激震はしるがごとく、揺れ動いたらめっぽういいんじゃないかと思うんやけど、なんか、そういった表現上の動きは少なく、ふわふわしてて、つかみどころがなくって、───非完結的で、非説得的ともなっている世界、、、かな。
肝心のガーデンの存在ですが、かえりみて、話全体からすればハシカスメ気味・ズレ気味で、なまぬるい。べつになまぬるくてもいいっちゃあいいけど、、、いってみれば、様式的で、おさまりかえっているようなところがあって、たいへんな話の材料をもちいても、それが様式的に幽霊化するごとく、現実的なちからを帯びていない、、、ですね。
”ガーデン”にまつわる世界については、作者ガムせんせいにおいて、自主創造的で、漫画様式的で、洒落てて、でもってイラスト的に絵世界を楽しめはするようになってて、でも話は現実的な、その、迫る力みたいなのを負いきれずに、どこか、朦朧としていて、下手な芝居を見せつけられるような、虚勢のようなキドリみたいなものを感じさせられるようなところがあって、一生懸命読もうとしていると、ややこちらがバカを見る、、、みたいな感触がありますかね。スラーーーっとはしっていく、自由へと流れていこうとするような線のなす、絵を眺めている分には───ポップで───じゅーーーぶんやと思うけど、話はどっちかてゆーと、幽霊的、、、(根がない、根が)、、、。やや未熟な、妄想の断片の集合体、みたいな。プラス、それを気味よくそれなりの感度・それなりの作品の体裁へと繕っている、みたいなところ、あり───。総じて、あたりはいい作品なんやけど、けれど、反して、あんがい、空を切っているんじゃなかろうかと。
半端な世界なんやったら、それはそれでいいと思うんやけど、変にちゃんと一般的な作品としてすすませようとしていることが、その半端な世界である良質の特性なんかもかえって打ち消しにする羽目、に───??? それがたぶん、下手な芝居の感じとか、作品世界のちょっとしたはがゆい気取りのようなものになっちゃってる。おのれの思いを形にしていくなら、もうちょっと、話とか、絵とか、ブサイクに、よろけたり、脱線してもいいと思うんやけど。表現することが、ちょっと、ひとめ意識のヨソイキ、ねこかぶりになってる、、、ところがあるのかも知れません。おれなんかからすれば、人受けのいい、みせた風、ではなくて、もっとお前を見せてみろ、って感じが、しなくもない。
いい陽気っ。ハッチがとんでますっ。いらっしゃませ! よく来てくれましたっ。くれおですっ。
あれですね、自転車更新、最新話、ととっ、でも、橋田センセイの先導にしたがって接した、バレーボールのやつ、「やっタイ」でしたっけ、あれ、おもしろいですね。みょ~に、おもしろかった、とぼけた感じがよく出てますよね。
いま、読んでたんですけど、友永光太郎センセイ、『流星機甲アグザイオン』。
いわゆる、ロボットもの、ですね。流れ星がまあ、表題にあるとおりで、ちょいと、意識されてる感じ、、、ですね、物語のなかをつらぬく、おおきな要素として。
2話読みましたけど、さびしい、無機質、つめたい、とか、その辺の感じ、ありますかね。宇宙を感じさせる、、、あるいは夜空、とかね、、、そんなたぐいの、黒とかの、空間が、前にでてくんのかな。酸素のうすい、、、世界やな。、、、高度のある。やっぱり、いまの、そして俗な、においからかけ離れた、近未来の世界、、、ぽい。けど、いまのところ、登場するロボにさして、魅力は感じませんでしたが。まあ、おおきいヤツがおる、くらいの感じで<笑> 操縦の、実践の訓練が行われ───、そこで、なんか、材木とかかかえて運んでましたけど<笑> たぶん、今後、もちろん、なんかいろいろあるんでしょう。”色々な方に読んでもらいたい”と、作者センセイによってかかれてあったので、ぜひ。
イークー事ーはー 罪 なーのーかー
CHJ帝王第三話。自慰という、からだにとって直結的(しょーじき)な行為とせりあい、それを追求したあげく、さいご自分自身のおちんちんを切り取ってしまい、失血死した、、、”オナニーくん”という、バカ丸出しを見事に表現しきった画風をもってなされた作品、あるいはその存在がありましたが、今回のこの”皮つるみ”なる作品が、その表現性の到達した地点(オナニーくんの存在の顛末、、、自己快楽の追及の末の、、、死)を越えてなおさきを切り開くのか、開かないのか、、、予断を許さないと思います、、、ゆくえを見守りましょう、、、! ───刮目の要、これ有り、、、です。
う~ん、そこには、なにがあったか、『INFERNO』。
西洋筋肉隆々剣豪ーーー、そのひと、ヴィンセントが主役。さあて、かたきをうつっ!その宿願をもつ、、、ひととして。
女性もいます、はなし当初・様子は、オオボスに張り付き加減、登場の。なんだか、パートナー的な。そのさまは、じゅーぶん、ビジョ的であって。
世界は、しかし、装飾的(インテリア的)で、あそびごころがめーーーいっぱい、あふれてて、、、!!! 時は”近未来”、アジアの一角に建造されたという”エイザ・シティ”なる人工島にて。江戸期の役者絵・浮世絵みたいな模様のハデハデにのった汽車が駅についたかと思うと、それはそれぞれについたてのはいったお座敷のかずかずを連結し客をそこにてのせやってくる、、、異世界感おもいっきり───! のおひろめ。たとえば、ひとびとの和っぽい衣装、髪は弁髪みたいなのがあったり、オオボスの城まもる手兵などは笠かぶりの足軽どもだったり、、、異国と江戸サムライ期、が乱れいって、あるいは、異国情緒としての江戸期(わがくに)日本がたちあらわれうかんでくるようなあんばい式になっておりまして、なにか、この世界観、、、作者センセイ(そう、前回のジム・キャリー、、、そう、どうも、お二方かも、、、ジム&キャリー、、、かも知れません)の、そのちからのほどがよくよく発揮され、描かれ尽くしており、まあ放埓に、自由にやっとるなー、かつは、それが、きわめて魅力的やなー、といったものに。
他方、お話の様子は、アクション要素もりもり、で、しぶメン・ヴィンセントのかたきうち譚一本槍。プラスあちこちに、おバカ様相、、、あり、で。まあ、そんなに、どーこーいうもんじゃ、、、ないかんも。けっこう、場当たり的なものさえ感ず<笑>
ある世界観をうちだし形作る、ものものが主役(ほぼ)。
ちょい思ったのは、ときどき、話とか、まあ、主役級人物とかのでも、なんといいますか、ヌケ方が、やっぱりすごい。まあ、ある程度、硬度をもって、やるもんでしょう、その作品なりの。それなのに、ときどき、作品の平衡がくずれてしまう、、、??? 的な、キャラのくずし方があったり、、、あれっ、、、と。まあ、さしたるものでもないのかも知れませんが。せっかくの作品世界をぶちこわしにしかねないその大胆さ、みたいなのがあるかなぁ。絵のこととか、、、やっぱり、贅沢、ですね、ちからがこもりまくりで。で、つむがれているのが、、、コレ、、、で、ということでいえば、その全体にわたる製作エネルギー(高い作画能力)の徒費感、また、かかる徒費おそれぬ放埓さ、のような、製作欲求(情熱)───、みたいなのを感じる、、、ともいえます。
わたくし、最新分まで、ゼンブ、つらぬき読み通しましたが。
ともかくも、組み立てられた世界観が、しっかりしていて、別世界提示的で、たいへん素晴らしい、、、ンな、感じです。
こんにちは。いらっしゃいませ! くれおですっ。
例の、マンガ出会い系サイト<笑>(WRC)にて、無作為出会いを果たしましたこの方、ジャッキー・キャリーせんせい、『大魔導師エリン』───。しっかし、、、少瓶管理人センセイの”27”にしろ、おしむんしセンセイのひらく世界にしろ、とかく、長いものは、半・習慣づいていきおいあって読んでるうちはいいんですが、いったん足が遠のくと、これがずいぶん途切れてしまう結果となっているようなので、で、この”エリン”も、いくらか描き継がれているようだったので、よし! これはちゃんとゼンブ読もう! と決意し、、、、んで、まあ、読んではやすみ、やすんではまたふと読み出し、、、しぃの、ここ2、3日のこと、最新話の8話まで、わたくし、ちゃんとゼンブ、読みました。
未完成・下書きのまんま風、、、なる、見た感じで、物語は付け焼刃的で、そうじて、駄作はたまた凡作風、、、だったんですが、ですが、ですがで。
開始は述べたとおり、う~ん、どうなっかなぁ、と見通しがそーとー暗かったんですが、じょじょに安定軌道にのり、う~ん、輝き出しつつ、、、。
エリンは王女さまですね、ザックは、フリーの存在で、魔法剣士、とかですな。そして、エリンは家出の真っ最中。ザックとか、ドラキという宙に浮かんだ生命とか、まあ、お供する成り行きになるわけですね、彼女に。で、彼女が向かう先は、えらいこっちゃの危険の森を抜けなくちゃならんっつって、モンスターみたいなんにかちあうんですけど、、、。
いやっ、物語は希薄です<笑> よみはじめで投げ出す率は、、、その危険はけっこう高いと思います。さっきもいったとおり、、、そうですねぇ、7話8話くらいまでいったら、ちょいと、みものかなぁと思えてきます。なんか、違和感がありますね、ところどころに、表現上の。異質な。それが、味わいになってる。真面目調の顔が基本、あるんですけど、それから、おどけにいくときの、顔の力の抜け方がすごい。高校生からの、いきなりの、幼稚園時代への退行くらい、すごい<笑> すっと力がいわばでたらめくらいに抜けるんですよね。そんなところに、へんなアトラクション性が生じてる。まあ、ゲーム性というか。ある世界的な割り切りというか。
なぁんか、単なるちぐはぐな作品、っいうんじゃなくって、作者センセイのペースみたいなもんがあるのかなぁと思いました。
物語にあんまり血は通っていないですけど、いまは、なんか、巨人族の末裔、、、みたいなんが出てきてて、絵ももう、はっきり説得性もってるし、作者センセイの趣味的世界の披露、みたいなもんとして、悪くない感じにどんどんなってきてますね。そういうのを味わうやったら、ちょっと、さいしょから途中にかけて、脱落しそうになると思いますけど、耐えて<笑> 最新のほうまで読むべきですね。そうすると、ひらけます、視界が、だいぶん。
それと、同センセイ、短編、、、これも、ふたつほど、あった分を読んでみました、題名が、『SHORT HORROR』。もう、絵がばっちり、きまっちゃってますね。迫ってくる感じのすっごくつよい、いわゆるアメコミ風の絵柄。”エリン”とは全然違う。ストーリーはお試し・試作くらいの感じ、絵がつよいっス。むかし描いたもの、ということなんで、絵はもはやすごいんで、いま描きゃあ、お話の方がどうなるか、っていうところじゃないでしょうか。二編とも、さっぱりくっきり出来上がってます。なかなか、エリンとこちらを並べたら、同じ作者のものとは思いがたいんですけどね<笑>(まあ、エリンにもそんな感じは方々に出てますけどね)
いま、アメコミ的なよさを、自身の表現へと、取り入れてはる過程なんだと思います。
”エリン”と”SHORT”に共通して言えることは、やっぱり、物語の弱さ、かな。あんまり作中人物が生きてない、、、ですね。血が通ってねぇー、って感じ、、、ですかね。
・DARK GRAVE過去編1
ページをさいしょにひらいたそのとき、山がひらべったくひろがっていて、木々があって、しろっぽい光を感じる絵がなんとも、、、いい感じやなぁと。
途中で、ふと。いまひろがってるこの世界(今回の話)をもう一回くらい、これをたたき台にして書き直せば、もっとおもしろく、すきのないものになるんちゃうかなぁと。ふと、ね。失礼ないい様かしらん。ごめんなさいね。
またこれも、ふと。パンつくるところに荷車いれるかな。衛生的な、ほこりまいたつ的な? ふと、ね。
いや、でもやっぱり、さいしょの画面が印象にのこってる。さっぱりしてて、なんか、いい画面やったなぁ。
ああ、そうや、アンジェラのご両親の善良無害な感じ、空気化、背景化しているような感じ(おっちゃんの見た目とかね)、まえに出てくるアンジェラっ娘との対比で、前後のふくらみが出てて、とってもいいんじゃないかなぁと───。
ふたりの、、、(あるいはよこの男の子もふくめた)、、、数年経たのちの馬車にての邂逅、そう、わずかな触れ合いにてのあの感じ、、、切ないわいや。そういうの、わたくしも、感じました。───と、ここでもちょいとしかし思ったのは、蛇足感ですかねぇ、いい場面になってたけど、表現から記述になってるようなところがあったかなぁと。あれこれ描いてしまうと、想像の余地がすり減って、ことが平坦化してしまう、、、的なことを感じましたかね。まあ、むずかしいとこですけど。う~ん、説明臭くなってしまってんですよねぇ、ちょっと。ヨハネの胸のうち、とかね。若干。
でも、アンジェラがじぃーとかいって、見てる感じとか、好きやなぁ、で、ヨハネがちょっと顔面に汗うかべてる感じね、コミカルさが、生きてる感じがしました。岡崎センセイが忘れずたずさえている、その、コミカルさがね。
・『皮つるみ 第二話』
選ばれし者やね、この人は。ほんまに。作品がひかってる。ひとりのひとのいのちがマンガその形に宿ってる。生き様が表出している。CHJセンセイ自身が、この世の中においてマンガを描くそのことによって生きてことを得ているその理由が、刻まれている。それを、読者に、もれなく通告しておられる。結果として。大々的に。見よ(くらえ)!見開きいっぱいの、陰茎───!!!!
表現者の、”はだかのこころ”がこの作品にはみられるように思います。
わたしは、市中ひきまわしにあうように、作品にひきずりまわされながらわらって、で、ほんのちょっとだけ、、、ほんとうにちょっとだけ、、、せつなくなって、泣きそうになりました。
冗談じゃない、ここには、CHJセンセイの”今”がある。この作品の”今”、第2話を読んだかぎりでは、天は、このひとの活動に味方していると思います。
つづき、わたし、待ってる<笑>
・うれしいやま+やま最新話15話は、教科書問題。なつかしや。ああ、なつかしや、その感覚。いつもどおり、いいペースで、いいセンスで、のマンガその展開。
・ちもちもは春休みかいや!? 充電!? まあ、ほどほどに。活動そのものから、乖離してしまわないくらいに、ほどほどに。
・ソムリエの福満しげゆき超プロについての文章、すっげぇ、いいっスよ。めりめり伝わってくる。あと、中田王が、パペラキュウというマンガを激オシしてました。このパペラキュウの作者の、、、バクネヤングはわたしもいまでもこころにのこってるマンガのひとつです。その後の、龍宮殿はあんまり、、、やったけど。
聖職者が悪魔に命乞いなどするな
最後まで闘って殉職しろ
いいですね、DARK GRAVE 第6話。いいですよ、今回。たしか、、、うろ覚えなんですけど、前回(第5話)で、えっ、て感じでヨハネの過去が開かれた感じだったんですけど、、、そう、なんといいますか、第6話は、ちからがこもってて、いいですね。見応えアリ!!
過去をみつめるヨハネがいい。自身の過去をみつめる感じがね。場が生きてる。
マリア、、、でしたっけ、キノコ投げてたし<笑> 投げるんかいっ、て感じぃ<笑>
いや、作者センセイの、稟性のようなものが、生きてる回じゃないですか。
う~ん、最初の頃おもろいっ! ってジョーショー、で、4話くらいかなぁ、ちょっともたついてきてんのかなぁ、とか、終わり方が尻切れとんぼ的で、まあ、こんな感じの狙いなのかな、とか、ちょいと、出来上がってないなぁ感をとらえつつ、、、で、今回、この第6話がすっごく良かったなぁ。やっぱり、ヨハネの当時の時空がひろがって、それをヨハネ本人が見ている感じが、とても膨らみがあって、いい表現やと思う。作者さんのなんか、いいところがうまく浮き出てる、、、とでもいうのかなぁ。ま、作者・岡崎センセイの、客観的な、澄んだ知性が生きてます。この作品は、ちょっと、デリケートな、そういう要素が感じられますね。全体に。絵も、なんか、抑制されてますね。
でも、要所がなんか、するっと流れるおそれがありますね。平坦化、とでもいっておきましょうか。あんまり、するするっといってしまうと、ね。そういうところはあるかもしんないですね。まあ、大事なところの強調って、ときどき必要ですね。ちょっと、やりすぎくらいの。そういうのが、あんがい、伝わったりする。作り手の意図を超えたようなものとしてね。過剰がないと、そういうことがあんまり起こらない。むずかしいことですが、こういう、物静かな、知性を感じる作者センセイは、自身や製作対象を自然と御しすぎるあまりに、いま述べたようなことを欠く、、、平坦化のワナが待ち受けている、、、ってことなんでしょうね。
さいご、夢魔をはなったエリファス(であってますよね)が出てくる、、、ああいうシーンは、蛇足かなぁ、と、ちょっと思いましたかね。夢魔をうちやぶったヨハネたちの様子だけでいい、と個人的には思いましたね。かえって、エリファスがわの様子は闇のなかにおいておいたほうが、と。ほったらかしぐらいでいい。その方がわかっていることとわかっていないことの陰影がつく、と。あと、エリファスとヨハネの因果、これがいまひとつ、わたしにはグンッと臓腑にこなかったですねぇ、だから、かの攻防に読者としてさして身を入れて参加できなかった、、、なにか物見の立場であった、、、翻っていってみれば、もっとわたしなんかを身を入れて参加させ得たのではないか、という気がします。でも、、、いろいろと言ってますけど、とてもGOODーGOODであることに間違いなし───、、、んな作品の時空がたしかたしかにひらかれておりました。
はいっ、くれおですっ。四月ですね、お花見の季節ですねっ。
ちょいと、WRCぶらり旅をつづけてみようかなぁと思っております。
さて、ンなわけで、また、ただいまおひとかた(の作品)と出会いました───3月10日生まれは、大阪在住だという、れぇセンセイ、『うちの旦那は歌い手です。』、、、”うちの旦那くんは某動画サイトに自分で歌った歌をうpする、俗に言う歌い手という存在です。”とかいう、、、どうもドキュメント漫画っぽいですね。じっさい、たぶん、そうなんでしょう。簡素で主張のつよくなくかつ目に優しくみやすい絵柄で、その”歌い手”なる旦那さんの様子が小気味よく、旦那さんのそういう趣味志向にふりまわされる奥さんがわのまなざしでもって───4コマの形式で───描かれています。淡白で、ありのままで、中立的で、まあ、見てて面白いです。ふつうに。ひとの生活をちぃと観察し得るかのようで。で、9話あたりに、いくぶんかの表現性を感じました。それというのも、逆にいえば、こういうのって、事実の淡白な披瀝(表現が事実に負けている・表現がしおれている)になりがちやから、マンガ表現としては前に出てこないなぁとそれまでに、ちょっと感じていたから、、、なんですが。まあ、それはどういうことかといえば、ここに描かれてあることって、ほんとはもっと面白いと思うんですよ、でも、表現性が弱いから、その事実(のおもしろさ)を伝える力がたぶん、そんなにつよくないんですね。だから、現実に旦那さんが歌ってる様子とか、その奥さんとのやりとりとかも、現実としてあっては、もっともっと、迫真・具体的で、面白いンだろうと思うんです、、、でも、作品の様子としては淡白であっさりしてて、そんなに”事実自体の面白さ”は伝わってはこない、、、ですね。そういう風に描くもんだと、作者センセイにおいて、あるしゅ割り切られてますから。まあその辺りが、事実に負けている表現、の意味になりますかね(べつに勝とうともしていない、っていうね)。表現は表現する力として、ひとつの事実にならなければならない。そういう点では、ちょっと、よわいかなぁ、という気がします。まあ、まだちょろっとを読んだだけで、もっと読んでみないと、なにがなにやらわかったもんじゃないですけど。
とりあえず、楽しみながら楽しみながら───、するするっと、10話までを、読了。つまり十分おもしろいんですけどね、読んでて。でも、漫画として、もっと面白くなってもいいんじゃないか、とか、読んでてけっこう、おれなんかは、思ったりするわけです。もっと表現として、、、実生活のその素材を生かして、、、飛翔してもいいのになあ、とかね。
おいでませッ。とーほー、くれおですっ。
いろんな形で、そう、、、このサイトをやるようになってから、気にしている方がいるものなんですが、ちょこちょこと気にはしておりますこの方、青磁センセイ、『鹿島くんのバイト』───は、コンビニでバイトする今風男子・鹿島くんとそこの店長、さらにはお邪魔役としてのエリアマネージャーなんかが出てくる、、、男と男の間の妙な距離、、、それこそ、イチャイチャ感を
打ち出しひろげ天下にさらしておりますような作品。わりあいよく、その、イチャイチャ感が出ているんじゃないですか。こういうのって、無関係なはたからみれば、そう、、、あくまで”はたの目”から見れば、こっぱずかしいもので、見てられない系のものになりがちですが、本人ら目線のようなもので表現性を透過してみれば、イチャイチャとは本来かくあり、沼にずっぷり自己をはめとらわれるが如く、たのしーもんでしょう、なんともいえず、ね。それが、どうかといえば美的立像である、、、同性間のやりとりのなかにおいて封じ込められています。その漂っている空気に、あるしゅむせ返るようなマンガであります(BLっちゅうのは、総じてそういうもん、ですね)。でも、表現としては、ひととひとの距離感(れいのイチャイチャ感のようなもの)とか、日常感(季節感)とかをうち出しているので、さほど濃くはないし(いまのところ、、、)、読んでいけば、けっこう面白いかもしんない。
かたや───、もう、、、ね、サイトをひらいて、新作、、、を公開しました、という文言を目にするその都度その都度、わっ!!! やった!!! と胸をおどらせているもんなんですが───はい、CHJセンセイ『皮つるみ』第1話(ちなみに全7話を予定されているそうです)。
なぁんでしょう、これは<笑> ノイズの多い作品。というより、ノイズを基調とした作品、ですね。おれは、読んでて、みょ~~~に気持ちがオチました(ダウン、、、ね)。じっくりと読みほぐしていて、おれは一体、なにをしてるんやろう、とふと自我を取り戻したり<笑> ”皮つるみ”って、、、こんな言葉はじめて聞きましたけど、もう、、、題名からしてイヤや<笑> インビすぎるやろ<笑> でも、この方には、、、いまさら言うのもバカバカしい、けど、、、美学がありますからね、それは、まあ、単純に、美的な人物っていうのはよく出てくるもんですけど、この方のみたところは醜怪な画面の、しかしわたしなんかには認められるその美しさは、作者センセイの徹底した奥底の美学(創作原理)に基づくもので、それはわかりやすく、非・耽美的なもの、あるいは、反・耽美的なものであることが多い、、、ですね。多かれ少なかれ、多数のマンガは画面的な耽美性にからめとられてますから、CHJセンセイの作品を読むと、そういう意味での調和を、しこたま得るおもいがします、、、バランスがとれるんですね。この方の作品は、たえず、部外者的、で、部内者たちの表現傾向に対して、補完的となる───、その、作品傾向としての、泥臭い、、、骨太の時代感にしろ、おおく人物立像に顕著な美醜、、、その画面性にしろ。、、、ふつう、スマートで、整ったものが志向されてるでしょ? この方のは、肉厚的で、歪んでます。なにか、時代の主流性や、人間が自然的に惹かれてゆく傾向を、根本的に拒否しているところがありますね。このひとの天才的にして自然的な創作態度は、現実に対してまっすぐに、NO───を表明することにあるのではないでしょうか。
CHJセンセイにおいて、創造は、現実の否定(殺害)である。また、その開かれようとする世界は、否定のうえに築かれる自身精神生命上の自由である。───と。
さて、内容の方ですが、ノイズ的で断裂的で、まあ、”皮つるみ”ってましたが<笑> 2週間ほどでつづきを発表するとこれは予告されておられましたんで、ともかくも、つづきを待ちましょう。
ようこそッ。くれおですっ。
なぁ~んか、むちゃくちゃなマンガやったなぁ。え~と、麻田由紀センセイ、『青空にワルツ』。
学生さんの、弓道部の、話で、女子あり、男子あり、の、ふつうの少女マンガのような感じなんですけど、こーとーむけーですね<笑> なんか、脈絡がないな<笑> これ、狙ってそうつくってんるんやったら、面白いんやけど、まじめにつくろうとしてそうなってしまってる、、、っぽいですね<笑> 込み入り方がすごい。なんか、消化しきれん要素(探偵、柳川さんなる女子のこころの闇)がわっさわさしてる。途中タイクツになってきて読むのもうやめようかと思ってたんですけど、いま述べたみたいなことで、なぁんかちぐはぐ感が悪くない、とも思えてきて、、、、まあ、でも、そんなに形にはなってないですね、不消化どすな。いちおう、作品として、駆け抜けてるけどね。終わりまで。ただ、これが、98年6月という、ずいぶん、月日をさかのぼる時期の作品らしいんで、まあ、ほかのものぞいてみよっかなぁ、ていう心境ですね。そこでは、ものすごい成長が遂げられてるかもしんないし。でも、う~~~ん<笑> 残念ながら、いまこの時点で、タイトルの”青空にワルツ”、を振り返ってみても、題名と、作品内容とのシンクロ率は、、、かるく5パーを切ってるんじゃないでしょうか<笑> 弓道部のお話だったわけですが、作者が放った矢こそあきらかに的を得ていない、、、というか、ズレたあげくに、となりのとなりの的とかにはあたっているかも知れない<笑>
絵は悪くなし、んで、お話は、決してさまにはなっていずとってつけた感満載やけど、がちゃがちゃしてて、まあ、たのしい。のびのびと、力いっぱい創作されてる───、って感じで。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
で、いまあらたにもう1作を。同センセイ『銀杏の彼』。
さいしょ、題名を見たときに、すでに、怪しいな、といくらか思いましたが<笑> 麻田センセイの、サイトにどどーんと公開されている、、、数ある作品のうち、これを選んだのは、日付が2007年になってたんで、随分さいきん近くのものになってるんで、、、さて、センセイの創作はどう移ろったかな、というところ。”青いワルツ”から10年───、で、そう考えると、すっごい贅沢なことなわけで、それだけの、ひとの、歳月のひらきを味わえるわけですから。んで、そこで、さぁて、、、
ザ・”銀杏の彼”、、、ん~~~、絵柄は、”ワルツ”に比べ、めちゃめちゃ現代っぽくなってますねぇ。変貌を遂げてます。なんか、イヤな上司がいて、ストレスをう~~~~と溜めている、会社づとめの女の人、、、がおりまして、ま、そこに、容姿端麗な、男(???)の銀杏の精霊が出てくる、題名にそうもので、また、題名がそうであるようにやはりちょっと突飛、ですね。銀杏、の、かれ、ですから、、、。なかをとりつぐものがない、というかね、どっか、中抜きで、飛躍してますよね。イキナリ感がある。表現・物語はさっぱりしたものやけど、読んでて、(真意のようなものが)よくわからんっちゃあよくわからん。でも、”青いワルツ”の物語のジグザグギザギザ加減に比すれば、ずいぶん角がとれて、まろやかになってるんじゃないですかね。けど、その分、前にはあったような、可能性の芽みたいなものが消えて、より”ふつう”に近づいてる、、、”青いワルツ”には、もっとなにか、とんでもない感があって、それがかえって、可能性のようなものに思えたけど、、、というところですかね。
シチューの言葉、「そんなそんな」がなんとなく好き、、、二回ほど出てきましたが。純度の高い、対話(こころの)、ですね。天然ものや。生きていることが、こうして、形になっていくことが素晴らしい。磨かれて、磨かれて。かたちになっているものが、輝き出している、あるいは、輝きだそうとしている。天然ものや。
えんやこらえんやこら、やっとこせやっとこせ、、、働くちもちも(第126話)が、そうして積み重ねた日の末、受け取るものは、「ちもちも君はよくがんばってるねー」「これからもよろしくたのむよー」という言葉と、給与明細。言葉は理想的ポジ。一方、、、給与明細(その表示内容)は現実的ネガ。というより、かけられる言葉ほどのもんじゃない。背反。即物的ちもちもの反応は、、、笑いました。おもろいっス。欲望に忠実なちもちもには、実弾しか通じないのでは。宙に浮かび加減の言葉じゃ足りぬ。そしてそれには本音の会心の一言がただ返されるばかり。、、、わたくしいくらか、ふき出しました。
ふーむ、、、『DARK GRAVE』第4話はどーなんでしょうか。3話までがスマートやった、、、のだとしたら、それに比べて、ちょっと、ファット、なのかな、、、??? いまのところ、仕上がりが。なんとなく、ちょいと、そんな感じがしましたかねぇ。キノコ様もでていらしましたが。ひきつづき、ぼちぼち、物語を追っていってみましょう!
”ニュースキャスター”はじまるまで、まだ時間あるんで、ビール飲みながら、、、、、、くれおですっ。こんばんはぁ。
おかざーき・とーくセンセイ、ダーグレの『第3話』。───あ、そうそう、シチュー見ました? いいでしょ? いま、『GateWay』更新されてるみたいなんで、ちょっとのぞいたら、今までに比してなお、絵がもう、最新感バリバリでびしっとしてるんで、これはぁ、たのしみですよ。
はいっダーグレ、いいっすね。突いてきますね、なんか。人生の、そう、、、取り返しのつかなさ、みたいなところを、、、はかなく───、せつなく───、ね。んで、今回はねぇ、見せ方がよかったなぁ。
ヨハネが宿をとりたいんやけど、どこもかしこも空き無し、で、ある一件のとこで、店主の暴言にあうんやけど、ぶちぎれてね、ちからのほどをみせる、店主一挙に豹変、平伏す、の、その背後で、実はチンピラがヨハネのことをあろうことか襲おうとしてたんやけどそのやりとりをはからずもみせつけられてひゃひゃーっと遁走していく、こういう間接表現? 未然的表現、いいっスね。実際襲わせてヨハネが彼らをボコる、んじゃなく、やりとりみてて悟って襲う以前に逃走する、みたいな感じ、、、ね、品のある表現、、、ワザってるなぁ、って感じ、ですね。あと、前回、エリファスが契約しようか、とか独語してましたけど、これもね、ヨハネのなにがしか縁起もつ肌合いを通した間接にて、それとなく、知らせる(読者に)、みたいな、ね、悪からず、それ、ああ、悪からず。でもね、ヨハネ、宿の店主の出方に激高して、受付台にこぶしをめり込ましたりしてましたけど、当初「宿泊したいのだが、空室は」「ああ、空いてるがテメェに泊らせる部屋は無ぇよ」とか言ってたのが、一旦力量みせつけられると、うえの階に荷物運びつつ愛想笑いなんか浮かべて「お食事は3軒先の酒場がおすすめっスよ」やって<笑> おっさん<笑> 怖かったはずの、おっさんよ<笑> ちゃんと客商売に相応した愛想あるんやないか<笑>
あと、気になった(気に入った)のが、”next”ね、次のページにいくのに、ふつうそのページをクリックしてるわけやけど、ちょいと、タイトルのところと、すっごい場面のところで、読者にさきに進む意志をあらためて問いなおしでもする、、、さながらに、”next"をクリックさせるようになってるわけですね(ページクリックじゃ先にすすまない)、なんか、いいな、立体的な(すなわち漫画の枠をはみ出たところでの)作者の思想・表現になってるな、と思いました。こういうのは、わたしは好きですねぇ。
今回も、断然完全おもしろかったっス。
、、、ああ、ところで、エルセリードは、男とかどうとか、、、。
『ちもちも』第125話はひきつづき、ちもちも界と人間界との折衝の模様。おそらく、、、ちもちも界には必須のものたるつまみぐい思想の披瀝、展開。にんげん人にはいくらかの衝撃を。かわらぬ互いが互いに対するに、の、誤差ありの模様。そうして、すれちがいを重ねながら、しかしそうしてきっと、理解を友好を深めつつ(?)現場での、日々の折衝はつづくのです。
ほいっ、コーヒーせんせい『White Stew』。
けっこう、ファンですね、わたしは。このコーヒーせんせい。
え~と、魔の者、なんですね、WhiteStewが。不死身、、、なのかな。魔にかかわるものゆえ放ってはおけぬとのことで退治しにいったものが、結果、返り討ちにあって、目のひらいた帽子にされ、、、。まあ、その際には、シチューを焼き殺そうとして、シチューが家に火を放つんですが、シチューはくりくりっとした姿態でなんかいて、こげたりなんかして、痛そうにしてるけど、まあ、痛そうにしてる程度、なんですね、逆にいえば。火にその身を焼かれても、、、まあ、しなない、で、その退治しにいった当人が、にわかに身内から燃え上がった罪の意識に、おのずと焼かれて身をほろぼす羽目に追い込まれる、で、目のまどの、ひらいた帽子なんかにされ、、、。
作者センセイが高校生の頃に書きつづけられていた───、とのことらしいですけど、目のくりくりっとして、いかにもかわいらしいそんなシチューの見た目にだまされなめてかかってると、ふと気づけばその時には、シチューあるいは作者たるコーヒーせんせいにもてあそばれる人形になってしまっているかも知れない。われわれにしたところで。
絵にこころが通ってるのが、びんびん伝わってきますね。イラストもわたし大好きなんですけど、ぜひ見てみてください。とってもいいですよ。
なんか、純度が高い。
じぶん(作者センセイ)のペースがあって、シチューのペースが、、、そういったものが、作品のなかに、ある。息遣い、、、といったものが。目がちぐはぐにいって、混乱している様子を示すけど、そうして現実にかく乱される光景はあるけど、あくまで、じぶんのペース、じぶんの世界、を、このシチューは示してるんですね。
いま、はんぶんくらい、、、かな。またつづき読みます。、、、いいものが詰まってると思います(たとえばP17の”家と月”の絵なんか、とってもいいものじゃないでしょうか)。
このまま、、、
最初から存在しなかったかのように
消えてしまうのなら、、、、、、
契約、、、してみようか、、、とローザの兄、エリファス王子。さぁて、どうなるんでしょうか。
くれおです。ようこそっ。
本日は、、、岡崎統久センセイ『DARK GRAVE』。
う~~~~ん、おもしろいなぁ。
魂を失いし空虚なる器よ、、、
その身に妄執を纏いて再び目覚めよ
すごそう系つんけん系の、魔導士たる身の、ヨハネなるひとがそう唱えて、死者を兵としてよみがえらせて、、、、、、おっそろしいねぇ。
まあ、はっきり言って、巧み、、、なんでしょうね。作品に、作者の(しずかな気配りのような、足場固めのような)こころが行き届いている、って感じ。概念的把握、っていうんでしょうかね、じぶんのやっていること、やろうとしていることが、よくわかっておられるんじゃないでしょうか。
第1話を読んで、それから、書き直し前、、、ということであるらしいその分の、第1話の方をざっと読んでみましたが、まあ~、はるかに、肩の力が抜けて、はるかに、達者になってるな、と思いました。まあ、なにかにつけ、物事をはじめるときの硬さって、悪いもんではないんですけどね。ただ、この作品の場合は、格段の進歩を遂げてる、といえるでしょう、脱皮っていってもいいくらい。書き直し前・書き直し後の違いは、ひとの成長を垣間見る思いもして、スゴシ───。
まだ第1話読んだだけですけど、う~ん、おもしろいッ。読む前からおもしろいんやろうなぁとはにらんでたんですけど<笑> やっぱり、やな<笑>
読み進めていくと、だんだんと(なんとなく)わかってきますね、自己満足の世界の意味が<笑>───ふぐるまセンセイ、『ハレタヒ』。
第16応援歌好きやわぁ~~~。うまいなぁ~。もう一個のちゃんとした話になってますもんね。瞬間にもう、その場のものでしかない雰囲気をつくってしまいますもんね。おどろくわッ。おじさまの、おばさまの、、、あの感じぃ? その場の空気がこっちもめいっぱい呼吸できてる気がしますもんね。ほんと、マジで。応援部の、人形のあのひとと、黒松さん(???)の様子とかでも、ちょっと前の方の回で、そんなん、ありましたよね、雷がなって、ふたりだけのものとなるその世界の、雰囲気をパッとつくってしまう。そういうのがバリバリ伝わってくるもん。すごいなぁ。
、、、いま、読みましたけど、第19応援歌とか、すごいですねぇ。米印が入ってましたけど、ちゃんとした、、、米印内容で。ふつう、この”手前”の表現はありますけどね、この”後”にも、なにか世界というのは、あるもんなんでしょうか。相手に対して、緊張したり、ドキドキしたり、まあ、黒松さんの側の様子が、”手前の世界”のもんでしょう、本条さん式に、ほとんどすべてを、”そういうもんだ”とわりきってしまったら、、、するってぇと、その”後”の世界っていうのは、あるもんなんですかね、それとも、人間が行ける場所ってのは、”そこまで”、、、なんですかね。やっぱり、それでも、どうなるんやろうと緊張したり、不安になったりするっていうのが、人間の営みだとすれば、その向こうの世界っていったって、結局ある程度は、同じようなものに、、、なるのかも知れないですね。う~~~ん、ときどき、日本人の平均寿命なんかから自分のいまの年齢を引き算して、なんか、出てきた数字とか考えて、じぶんの人生はどこまで行けんのかなぁとか思いますけど<笑> あんまり大したところまで、、、いけないのかも知れないですねぇ、、、(なんのこっちゃ)。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、なんじゃ、この第24応援歌、、、! もう読んでてわけわからんようなってきた<笑> めちゃめちゃ面白いな。”悪いおじさん”では、性格的なアウトローみたいなもんをとらえてたけど、こ、こうまで、、、性的なマイノリティみたいなもんを要素として巧みに過ぎて凝縮・圧縮して、コミカルに、さらには堂々とっ、飄々としてやまずに───つくりあげてる作品も、あんまりないんじゃないの? ふーーーーーーーむ、、、、、。話のダイナミズムとか、まぜっかえしかた(お好み焼きをうらっかわにひっくりかえす手つきのようなもんで)とかが、すごいな。まあ、まず、もう、絵にもっていかれるもんなぁ。逆らえんよ<笑> ここまで揺ぎ無くがっちりしていると。絵も話も、まぁ~~~密度の濃いこと。すきがないっス。ちょー、リッパなマンガや。、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
あ~~~、いま第30まで読んだけど、おもしろかったなぁ。めちゃめちゃおもしろかった。う~~~ん、カンプクしました。それぞれの話でいろいろ言いたいことあったけど、もういいやっ。ベリクソに、ただただベリクソに、おもしろかった。びっくりしました。
くれおですくれおですくれおです。きてくださって、ありがとう!
はい、いま、ふぐるまセンセイの『ハレタヒ』、という作品を読んでいました。
そう、相互リンク申し込んだ際のふぐるまさんからのメールで、そのときはまだわたしふぐるまさんの作品を読んでなく、そう言ったら、自分のは自己満足でやってるもんで読まれれば失望されますよ的なことをたぶん言ってたと思うんですけど、、、めちゃめちゃ面白いじゃないですか<笑> その言葉が、ちょーケンソンだったことがよくわかりましたよ<笑>
う~ん、この”ハレタヒ”、1話、が、その単位が、1応援歌、なんですね、で、1応援歌ごとが短いめのお話やらになってるんですけど、6応援歌で、わたし、なんか、不覚にも感動しましたよ。あの短い中に、なんか、いい要素がいっぱいはいってるんちゃいます? で、レベルがあんまりにも高いんで、誘われて───、躍動する胸をもちつつ、そのまま、いま、この文章かきはじめたんですけど、、、なんていうんやろうなぁ、絵がとにかく”つよい”のと、あと、リッパなひとなんでしょうね、ふぐるまセンセイ自体が。ちゃんとしてて、で、余裕をもってかいてはる、、、感じぃ? その前に、、、”悪いおじさん”もちょこっと読み返してみてたんですけど、やっぱり面白い、、、! 表現が、堂々としてるんですよね、、、失礼な話、リッパな一社会人がそこにいる感じ。人間的に、及第点をクリアーしてるひとの表現、って感じ。というか、クリアーどころか、総合的に、ひと・作品としてのレベルが高いなぁー、という感じ。どーん、でーん、としてる。ゆらぎがない───。たぶん、おれからすれば、目上の方になると思うんですけど、今後おれが生きていってそして年を重ねていっても、たどり着かない人間的・作品的レベルに達してる、、、みたいな感じ、かな。うーん、なんか、ひとつ抜けてしまってる感じがしますね。とにかく、堂々。そして、絵、つよし! たしかに、、、自己満足の世界といえばそうかも知れないけど、それとしてあったとしても、まぁ~~~、レベルが高い。Web時代やから、こういう世界に触れることが出来るんでしょうねぇ。ひとむかし前やったら、こうやってふぐるまさん、はっきりいってちょーレベル高いマンガ描きつつ、周囲のひとにみせるぐらいやったのかぁ、、、。こういうひとがいっぱい出てきてるわけですよねぇ、中田さんにしろ、べっこう飴さんにしろ、小宮山さんにしろ、CHJさんにしろ、橋田さんにしろ、これらのひとたちはなんか、もう、自己表現してますもんねぇ。マンガその自己の作品形成において。う~~~ん。
いやっ、”ハレタヒ”、笑うところは笑い、んで、また、一方で、胸をつかれ、わたくし、感激・感動いたしました。読んでみてください。堂々たる、自己満足の世界ですよ。いやっまいりました。
寒い日がなおつづきまんな。こんにちはッ。くれおです。
『ちもちも』119~122あたり。あいや。珍しいさま、あり、じゃ、、、。”ちもちも”界と人間界が境を接しているようですね。ちもちも界の常識(!?)”TENGA”が人間界の”こづかいかせぎ”に瞬間に翻訳されとるさまは、両世界のみぞの深さを感じさせますな。そのへん、にゃあんかおもしろい。このシリーズ、つづくとすば、なかなかに、みものかンも。
スーパー『自転車』は立て続けに世に問われ───、、、、、うれしいかぎりでごす。フーーーーーーーーン。なんか、おもしろいな。この(”うそつき”の)三つめ、けっこうおもしろいと思います。こういうのを切り取って表現しているのって、なんか、すごい。まあ、たまきくん、酔ってるわけですけど、で、しらぁふ状態のあいつくんが家まで送っていって、肩かしてあげてたりするわけですけど、この様子でいえば、ふつうの状態のあいつくんが、まあ、正体を失いがちなたまきくんを介抱してあげる、包んでるがわなわけですけど、けれど、通常の状態を失ってその分こころがハダカ化しているたまきくんに、ひとこといわせるわけでしょう、で、余裕のあるがわのはずのあいつくんがその不意に浴びせられたストレートな言葉にちょっとムカついている、という、、、。酔ってなにがなにやらはっきりしてないがわが、酔ってもいずなにがなにやらはっきりしているあいつくんをまあ図らずも正当に”うそつき”といってるわけでしょう、あいつくんも、これはちょっと、ムカつかなしゃーない<笑> 相手を介抱する、、、ほんらい余裕のある、しらふな自分の立場が一瞬剥落するわけです。しゃーないやつやな、たまきは、とかいっていたような状態が、、、一転して、ね。なんか、、、こういう一瞬を切り取って描くのって、、、、巧者よのぉ~~~、橋田センセイよぉ~~~、ふかみがあるのぉ~~~、センス・ピカリ人やのぉ~~~、って感じぃですね。え、わたし? そう、わたしもいま実は酔ってんです、、、───うそです<笑>
こんにちは。くれおです。
自転車新作が───。つづいてるんですね、前回から。”うそつき”の2つめになりますか。、、、まあ、ホッとしますね、あいつくんやら、たまきくんと出会うと。なめらかな画面ですよね。ま、、、”悪いおじさん”、”ゲロガエル”、、、”許容範囲”なんて、まあそれぞれの境地において痛快!、、、なわけですが、これらのキョーレツな世界にもまれたあげく、こちらへ帰ってくるとね<笑> ホッとするものが、、、浮き立ちまさぁね。ネタはあるけどそれをマンガにしていくのがおっつかない、、、みたいなことを随分まえ、橋田センセイ、いってましたしね、この調子で、描きついでいってほしいですよね、この”うそつき”の回、予告的に、5までが並んでるんで、つづきが楽しみですね。今回はたまきくん、コップ一杯ともたずに、酔っ払って、テーブルにだらんと上半身、、、すっかりあずけてました。
いま、読みました。アトリエキュダンは清水一狼センセイ、『アイドル オバちゃんコミック ~母と娘の奮戦日記~』。
う~ん、おもしろいですねぇ。多数によって成る、アイドルグループがありまして、そのなかのひとりの女の子、───のお母さんたる、その、オバちゃんに焦点が定められています。清掃のお仕事やってる、肥えた、オバちゃん。まず、こういう主役の選び方がおもしろい。ちょっと、おもしろいですよ。まあ、、、。
絵柄はなんか、みやすくって、かわいらしいなぁ。愛嬌がありますなぁ。
まあ、現実圧力(なんらかの負荷)が、オバちゃんにも訪れたりする場面があるんですけど、それはたとえば、じぶんの娘が今度の曲でセンターとることになった、ンで、街中歩いてると、若者が「あいつが? ありえねー」とか言ってる、、、で、オバちゃん、そこで、そのまま、暴れてます(ふたりの男性は壁にめりこんでました)、、、なんというのかなぁ、滞りがないなぁ、表現がなんか、さっぱりしてる、そこでもうそれを解決してしまう、ふつうもちろんそんなことしないわけですが、受け流し、、、とでもいうのかな、まあ、ある種の、瞬間的な、理想的な、単発的な現実がある(イヤなことがあってもガマンする、という実際の生活のことを考えるとね)。そういう意味で、全体をとおして、変にタメをきかせない、するっと流して、雰囲気をこしらえてる、あんまりなにも、要素(たとえば母たるオバちゃんの奮戦ぶり、だとか、アイドルたる娘の奮戦ぶり、だとか)が前に出てこないんですよね、するするっと、なんでもないよ式に、流していく(さっきのべたストレスのその場解放性なんかの手法も含めて)、で、全体として、雰囲気的に、な、わかるだろ、って感じで、ひとつのお話を築いてしまってる、、、う~ん、なんか、句読点のない、上質なマンガ、、、って感じ(じぶんでも言ってて半分くらいわかってないけど<笑>)。読んでて、おれは知らん、ただ、おれは表現者としてやることはやっている、あとは読み手であるお前がやれ、っていわれているような感じ<笑> そういう意味じゃ、すこし、交流感のないマンガかもしんない<笑> でも、まあ、よみやすいし、そつがないし、小技がなんか各所で利いてるし、面白かったですね。簡単にいえば、主義主張といった自己性を殺してるマンガ、とでもいうんですかね。ま、それが言いすぎだとすれば、殺し勝ちなマンガ、、、になるかな。
はい、こんにちは。みなさん。いま、わりとマンガ読む気があります。くれおですっ。
本日は、、、ふぐるまセンセイ、『悪いおじさん』。
弱ったな、これ、読むと、中田センセイの”許容範囲”が、ちょっと、青臭いものに思えてきてしょうがないですね<笑>
まあ~、細密で、どしっとしてて、現実に根を張った絵柄、そして絵柄、、、!
え~、、、刑務所帰りで、元ヤクザで、、、っていう学生舞ちゃんのお母さんの弟、、、そう、つまり、舞ちゃんにとっての叔父さんが、まあ、ワルイんです<笑> コンビニ前でしゃがみこんでたむろする、ともかくもの(!)悪相をせおった連中のひとりの背に店のなかへ入ろうとする悪いおじさんが触れてしまって、とうのぜん、そやつが「おい」みたいなことになって、平然と、ぬらりとおじさんは対応するが、「なめてんのか、土下座せんかい」的なことになって、、、ところかわって、家、おじさん、鼻から血ィながしてたり、、、「案外おじさん弱いのね」とかいう舞ちゃんに対して、土産ぇ、みたいな感じでころころっとした歯を三つほどてわたしたり───(喧嘩した相手の、ですよ)。
はなしもがっしりしてますね、現実的、現実的。写実的。
こういう、ちゃんとした現実の重量感を抱える絵、とか、はなし、って、マンガ表現として、あやつるのがすごく難しそう、、、ボロがまるわかり、というかね、紛れようがない感じがします。でも、作者センセイは真っ向からかかる現実性を引き受けてて、それで、ちゃんと、マンガになってる───。
こういう無頼のひとが、外側の人間に対して、”悪い人”としてあらわれるのはよくわかります。問題は、うちがわの、、、舞ちゃんとか、自分の姉さんに対してどうあるか、だと思うんですが、だからこの関係がどう描かれようとするのか、おおいに注視していたのですが(それが現実性をもっているかどうか、ですね───、だって、え~そんなことないわぁってなったら、この作品の絵にしろ話にしろそのリアリティの世界が崩れてしまうでしょう?)、で、さいごに第2話につづくとなっていて、でもまだその2話めはなくって、わたしがその1話めを読んだかぎりでは、いい感じ、、、おもしろいなぁと思いました。
舞ちゃんの部活かなんかの試合の応援にいって、また、悪いおじさんが騒ぎを起こす、家にかえってもうみんなに会わす顔がない的な感じで舞ちゃんが自分の部屋にこもって泣いているところへまあ、、、おじさん、謝りにくるけど、とびらの向こう側から謝りつつ、でも、鼻をほじってる(あっけらかんとしている)感じとか、悪くないなぁ、(表現として)堂に入ってるなぁと思いました。一方、問題ばっかり起こすおじさんに対して、どうせヒマなんだから舞の試合の応援にでもいったら、とかいってた舞ちゃんのお母さんも、けっこう、ぼけてんじゃないの? ふつう、行かそうとは思わないでしょう。こんな”悪いおじさん”を。でもそれはリアリティが壊れるのを感じた、というんではなく、ちょっと世間とはズレた形で、でもちゃんと身内としてかれらがおじさんとつながっている様子なのかなぁと思いました。基本的な信頼を、それでも、手放していない、というか、失っていない、というかね。そとの人間は、すぐにあかん! と見放し逃げてしまうようなところを、こいつぁしょうがないなぁといったり思ったりしつつ、でも、ちゃんとつながってる感じ、、、ですね、そういうものなのかなぁと思いました。まあ、姉さんも、人間の出来として、けっこうすっとぼけてんのかも知れない<笑> あの弟にしてこの姉あり、と<笑> そういう、未来、今後のはなしの膨らみ、世界の充実への志向、みたいなものは、まだわからないですね。でも、第1話を読んだだけで言うと、あの絵のどしんと腹にくるつよい感じと、話の現実的な粘りけが協調してて、どっちもバシッとして生きてて、ひっじょーに面白かった、、、ですね。
はぁ~、歯痛すこしましになったぁ、、、くれおですっ。
昨日につづき、四季山センセイ第二弾、『階段』(前後編)の方になります。
階段?、、、この階段は天国へとつづく(といわれている)もので、ふつうの街中になじんであるのです。ふしぎと。母親ひとりがふたりの子供を一心にはぐくむある家族にて、年に一度の旅行のうち、滑り台遊具にて遊んでいる折の事故がまあ起きてしまい、、、兄妹の妹たる子をかばって亡くなる母親が、、、妹は助かる、、、けど、兄に聞くわけでして、お母さんはどこへいったのか、とか、いつ帰ってくるの、とか、、、兄は言うわけです、街中の階段を見つつ、あれ登って天国へいったのさ的なことを、ね。
まあ、そのあとどうなっていくかは実際読んでもらったらいいと思いますけど、階段に重きを置いてて、その着想としての階段は、ときどき光ってますよね、あと、作中における、文字目立ち度が高い、、、ですね、解説的ナレーション的な部分での。その牽引が、絵柄(やさしく、丸い絵柄)に勝っちゃってるかもしれない、おおく、、、。
話を立てようとする四季山センセイの意志をつよく感じますね。でも、ちぃと、甘いですね、浮き上がってて、板についてない、、、ところが感じられましたね。人物が、生きてないですね、あと一歩。つくりものになっちゃってる、、、かなぁ。お兄ちゃんの様子とかね、硬い、というのかな。型通り、すぎるなぁ。作者センセイの人生がうまく作品にのってない、、、なあ。惜しい感じがすんねんけどなぁ。物語を築きあげようとする意志、みたいなのはつよく感じんねんけど。見せ方も、たとえば階段の切り取り方とかも、、、もっと、よくみせる方法があるんちゃうかなぁ、とか読んでて思いましたね。、、、う~ん、なんか、いいところにきているようで、けど、なんか、、、惜しい感じがします。
四季山センセイ、『走馬灯』の方になります。
目覚めた少女迎えるひとりのシックな装いの男性、ふたりっきりか、個室か、ってところ。とりわけ飾り立てもなく。、、、間際にみる、走馬灯、じんせいが凝縮され、たとえば見る走馬灯のような人生は、二度目の人生をやるに等しいんじゃ、、、といった提示あり、男のひとは死神で、、、淡々と目覚めた少女はかれに事情をきかされ、、、
サクサク読めて、読後感が悪くならない程度に毒のある作品を目指してます、とは作者センセイの辞。
んな感じ、あります。サクサク読めて、んで、たしかに多少の毒っけが感じられる。
途中、あ、面白いかも、と。
ん~、でも惜しいなあ。ちょい、ちぐはぐやなあ。
死神にいさんと女の子のやりとりなんかが、ちょっと、下手なお芝居みせられているような感じで。
作者センセイが目指している方向性は、話にしろ、絵柄にしろ、示されています。
でも、ばらけてて、、、完成度は、、、というところかも知れない。
ほいっ、CHJセンセイ『ゲロガエル』。一日で描いたんですって。この作品。一年前とかのことだそうで。まあ、わるからず。オレ的には、ちょー吉田戦車っぽいな、と思いました<笑> 吉田戦車超プロは大好きで、めっぽう読んでるほうだと思いますけど、おおむかし、『若い山賊』っていう双葉社から出てる戦車プロの単行本があったんですけど、そのなかの一編として、この”ゲロガエル”がはいっててもぜんぜんおかしくない、、、んな、ちょー吉田戦車っぽい感じがわたしはしました。かわりません、CHJ道が明示されてます。おもしろかったです。
中田多哉センセイ、『許容範囲』!
これ、ちゃんと語りたかったんですけど、いま、あんまり落ち着きが無い状態で文章かいてるんで、ちょっとムリです。ぱぱぱと感じたこと、語ります。もう感想が段々自分のなかで新鮮味失ってきてるしね。
前作”さいなむもの”につづき、灰色マンガ、ですね、これは。おもしろい。
読者に答えを出すことを許さない、、、的なマンガです。
男が男を、それも、学生の、ひとりの男が、じぶんのともだちを犯すという、不気味なことが、現実をしっかり支える絵柄やら様子によって描かれているんですけど(ああ~やっぱり、ちゃんと語ったほうがいいかも知れないですねぇ、このちょーしでかいてもうまく表現できそうにない、、、ちょっともったいないですねぇ、、、)、まあ、若き日の生煮え、不透明さ、意識と無意識の往復の様態、みたいなもんが、出てると思います。ソザツですけど、part3の4枚め、一番おわりのページからさかのぼって3枚目、じぶんを犯した友達の言葉をきく主人公の顔をみてください、かれはなんという、、、表情をしてるんでしょうか。困惑、混乱、喫驚、意識的主体としての学生なるケツの青いまだ人生呼吸するところ少ないかれ、かつ、無意識なる自己存在、そういった意識の領域よりよっぽどおおきな背景的素地に、いま、まさに、自分がひととして経験していることがあまさず吸収されていく様子、そういう、理性的意志的個体としての人間であること、と、それを越えて運命の軌道にある人間であることが、まさに、そのものとして生きる若い人間の像として、うまく結晶化していると思います。なかなか俺が言おうとしていることはわかりづらいかも知れないけど、ひとは、いまを、わけもわからず生きているもんだと思うんです、でも、ある程度、現実と和解する、それが、わかった気になる理性的な人間の所在であり、またそれが現実に構築しうる客観的な人間の地歩だと思うんです、、、しかし、この自分とは何であろうか、この人生とは何であろうか、というような問いに追いつかれたとき、であうのは、存在の不思議さでしょう、意識と、無意識が行き会う場でしょう、この世を認識する以前に、この世があることをそのままに受け入れる率直さ(意識・認識不全)、、、のような様態でしょう、そういうものが、そういう、、、人間の現実受容の直接的機能が働いていることが、あの表情には見て取れるように思います。これはまさに、意識的に理性的にわりきるオトナ的にものをわかったこととしてあつかう人間の立場からして、それを許さない灰色的表現としての、大きな実り、、、ではないでしょうか??? しずかな、達成だと思いますけど。デジタル的にわりきり発展していく人間形成に対し、アナログ的な人間の所在、その表現の、、、ね。アナログ原初的な人間像があの表情にはあると思います。べつに、どーでもいいことなんですけど、でも、、、そういう言葉だと思ってきいてほしいんですけど、わたしたちは、はたして、いまを、この世界を、なにかわけがわかって生きてるんでしょうか??? 、、、まあ、そういうようなことです、あの表情にみてとれる人間のアナログ的な所在、わりきれず、灰色であるンナ所在の様子というのは。
で───、CHJセンセイは、おのれをもって、今回も表現してはるけど、ま、現実の重みをぽーんっと放り投げているのに対し、中田センセイは現実を支えてますね、どっちも自己表現には成功してるけど、ま、ちょい、中田さんの方が上かな、という感じですね。このふたりに比して、四季山さんの”走馬灯”は、まだ、うまく統一されてないですね、自己の表現へと。すこしばらけてる。
ね、個々の作品が、順位付けの観点から、背景的に、交錯してるでしょ?
そういうもんなんです、”作品の交錯”の意図って。いちいち語りませんけど、いつもこんなこと、頭の中で、う~~~んってしっかり考えながら、やってます<笑> いちいち理屈はつけてませんけど、作品から受けた印象を、、、どのくらいの重みがあったか、なぁんて考えながら。もっと焦らず文章書きたかったけど、こんな感じです(歯が痛いのと、肩こりがひどいです<笑> よくこれだけ文章かいたな、おれはえらいな、って思います<笑> ”許容範囲”はもっと焦らず語りたかった。なんか、おもしろいものが出てると思います。で、”ゲロガエル”もどうぞ<笑> まっすぐに、おもしろいです)。
ん~~~、『BarBar婆』の余韻もさめやらぬ中<笑> 岡崎さんの作品を、、、いや、SoNoさんの”マリア”、、、いや、”ドリーミング”のつづきを、、、いや、あるいは”神様の”、、、とたいてい、気だけはいろいろとうつろうものの、結局どれも読まずじまいの<笑>───くれおです。
『自転車』は43話めになりますねぇ、あいつくんのうしろでの、たまきくんとお父さんとのやりとりなにげにききぃののつっこみがいいですね。で、たまきくん、キミ、信じるんかい、と<笑>
ああ、”ちもちも”は、、、無修正はエロではなく、グロだそうです、で、それに対して、アラ、かわいらしい、ということで<笑> 初級者、という位置づけなんでしょうか。誰もが通る道、、、こそ、無修正(まんま)は、エロではないグロ、、、の境地、と───。とっとと慣れましょう! ということでしょうか。あるいは、はじめの人間ほど、注視する、で、その注視が(カウンターをくらうかのように)わざわいする、もともと、そんな、まじまじとみるようなもんではない、、、かも知れませんからね。さりげなく、通過するようにエロとして経験する、そんなもんかも知れません<笑> 人生、なにかにつけ、視線にしろ───、人間関係にしろ───、滞留(とどこおり)は、グロのもと<笑> です。
みなさん、ちょっと待ってください、、、べっこう飴センセイの様子が、、、おかしいですよ、、、<笑>
悠久大河4コマロマン”ちもちも”こそが、そう、、、日本におけるサザエさんや、コボちゃんの位置にやがては至らんものと、、、ただただひたすらにそうなっていくであろうものと、、、なんとなく信じて込んでいた<笑>私には、、、その登場に───、意表を突かれ、びっくらこき、うれしさによくよく、、、胸おどりました───、べっこう飴センセイ、『BarBar婆』───。
しかし、これ、、、創意バクバツしてるんちゃいますのん?
笑いました。なんじゃ、この店主(婆?)は。なんちゅー造形や<笑> 得体が知れん。 婆なんかどうかもよおわからん。 氏素性が知れん<笑> どんな人生歩んできた末に、”この今”があるのか、さっぱり見当がつかん<笑>
生きてますね、のびのびしてるし。
婆の髪の毛群がぐるぐる顔の輪郭を回るところ、GOOD! 手もとすべらせてうしろはげさせてしまったのを、手をかざしておそるおそる見るあの間合いのとりよう、、、GOOD、GOOD! いいね、ノリシロ的や。たとえばそれらの箇所に、表現者の息遣い、、、みたいなのを感じたりしますね。やっぱり、今回の新作にも、”ちもちも”にみられるやわらかい才気が同じように出てて、世の中をわたり生き抜く作者のビジョンが多少とも、反映されてると思います。表現する自分がそこには居て、いいっスね。物事を、おおらかに、やわらかく取り扱ってあそぶこころと、それをいざ形にしていく、実際の、、、腕がありまさぁな。
わたしは、読んでて、ひっじょ~~~に気持ちよかったです。
四回ほど、いまのところ読んでますが<笑>
しっかし、耳から髪の毛が飛び出る、、、あれは何なんでしょう<笑>
まあ、でも、さいご、パンツいっちょーでぼーぜんとたたずむ男性にむかって、ゆび二本たてて、チュッとかやって、ひろひろ~ってハートが飛んでたし、、、きっと、この婆、、、愛はもってはるひとなんでしょう<笑>
雨です。(Web網あめに関係せぬことながら)お運び、感謝! とおりすがりにでも、のぞいていってやってください。くれおです。
真希ナルセせんせい、『山羊の歌』。
こちら、同名の、故・中原中也大先生の詩集、、、そのナカミを、マンガにしている、、、というもの。中原センセイの言葉にそって、絵が並べられていきます。セリフはありません、言葉は詩、のみです。そういうコラボ、ですね。
どうでしょう。はてさて。おしげもなく、細密で、整った、、、たとえば、葉にとまる蝶々が、空をあおぐ毛を感じさせる猫が、風車が、童女が、コマのなかに描かれていっております。
絵が立派で、ちゃんともの(現実)なので、詩のイメージへの膨らみが阻害される、、、というところがありますね。結局、、、詩だけの方がいいンじゃなかろか性<笑> これが。でも、帽子をかぶった、かげのある、中也センセイご本人らしき人物の断続的登場が、マンガをひきしめてますね。ちび太のたえず持つおでんにおける、具に対する串のようなもので。
真希センセイはよっぽど即物的で、現実的ですね。たぶん、中原中也本人より、よっぽど───。だから、そういう性質は、作品内におけるふたりの関わりにあっては、反発しあってる、、、かな。でも、わりと”汚れっちまった悲しみに、、、”のところはよかったかも知んない。すこし、そこでは詩の抽象性が機能していたように思います。
あと、最後の”幸福”のところで、
幸福は厩(うまや)の中にゐる。藁(わら)の上に。
幸福は和める心には、一挙にして分かる。
という詩には、グッとキましたけど、そのあとで、真希センセイは、星条旗とか、米大統領、日本の総理とか、、、まあ、そういうのをずらずら~っと並べて、詩を、その言葉を、現実の方にそうして寄せてみせるわけですけど、よくもわるくも、っていう感じですね、こういう表現というのは。プラスと、マイナスが、はっきりしてる。現実的な、生きる力が満ちるように思うけど、他方で、詩は、、、詩をよむひとのこころというのは、たぶん、9割方、蒸発してしまってるんじゃないですかねぇ。
まあ、、、ええもんやなぁ、と、すこし、、、この折に、中原中也の詩に、こころが向かいました。
どうもこんにちはっ。みなさん、ご機嫌の方はいかがでしょうか? はっぴーはっぴーでしょうか?、、、くれおですッ。
ひさびさ、、、じゃないでしょうか、”八番街”所在はスミスケせんせいの世界、───『愚者二人』。
どうでしょうか。絵が、きれいでいいですよね(うまいなぁ、達者やなぁ)。さっぱりしてるんですよね。仕上がってる、って感じで。
話の組み立ては、生きてると思う。意表を突くような要素を含んでいて。
反して、生きていない、、、と思える部分は、ですね、ものごとに、あるいは、登場する人物、、、死神、罪を犯す男、天使、とか、、、に、かれらおのおのが存在する(独立的な)そのプロセスを感じない、換言すれば、ものごと・人物が安直結論的な成り立ちになっていますね。絵の達成と同じく、さっぱりしていて、死神を見ていても、罪びとたるその男を見ていても、絵として上手にたっていることは魅力的で伝わってきますが、その他の存在としての奥行きを、さして感じないですね。そこにたたえられているのは、死神という上手い絵であって、死神───彼という、或る時の過程性を負う存在───ではない(どちらかといえば、ね)。
話、、、といいますか、ひとの揺れ動き(天使の様子)とか見ていても、頭で構成されがちだと思え───、その立ち居振る舞いなどに、肉体(過程的な人生・存在その重量感のようなもの)を感じません。人物たちは上手に描かれた絵ではあっても、かれらそれぞれとして、生きてない、ですね。
絵にしろ、話の組み立てにしろ、客観性のつよい部分では、魅力を放ってますね。反して、ものごとに厚みをもたせ平板化を抜け出させるような、人生が、感じられないですね。たぶん、作者センセイは、引きがちやから、ともなって、情熱が、主体性が、潜行しがちで、感じにくい。結果、ものごとが浮き立たず、平板化しがち、、、ですね。マンガとして立体化せず、すなわち、マンガ世界として魅力を放出せず、奥行きのない、”紙の上のこと”、により接近していくことになる。だから、たくさんのコマたちが一体的に統合したマンガというひとつの生き物、、、に接するというよりかは、けっこう、連続する傾向をもつ絵(コマ)の数々を見ている、感じになりがちですね。なんといいますか、一体になっていないんですよね。各方面へ、バラけていってる。
”愚者”の愚者たるところも、いまひとつ、しっくりこないですね。ぼやけてます。罪びとの愚かさも、天使の愚かさも。スジが通っているようには思えない。なあなあな感じがします。ひとりひとりの人物が独立せず、絵的には個体として成っているけど、単純につながってしまっている感じ(安直結論的・非過程的・予定調和的)。作品内の出来事が、思想が、かれらが生きていることの結果であるよりも、作者センセイにおいてあらかじめ決められた結果の方へと、かれらの生きていることが、ひきずられていっている感じ、、、ですね。そのために、作中人物たちの、生きていることの過程的なダイナミズム、、、みたいなものが、衰弱してしまっているんじゃないでしょうか。
愉快痛快、おしむんしセンセイの『ドリーミング スクール』。
第1章の5話めになるんですけど、今回なんか、お話が動いた感もむくむくとわきあがってきて、ちょっと、おもしろかったなぁ。
名前覚えるのが困難なんですけど<笑> マッキャロン人のね、プズズープの家に行くところで───、で、プズズープは、ヒレみたいなのが両耳のところにあって、ものものしい帽子かぶった、海草のようなひげを鼻のあたりから伸ばしたおじさんなんですけど、で、前田勇気くんらは異世界に修学旅行中のバスのなかから吹っ飛ばされて、それで、おもわぬ(異世界の)崖のうえにいて、んで、落下傘がわりになる植物を(これもプズズープにおしえてもらったんですよ!)ぱっとひらいてたかいたかい崖のうえからおりていく、、、ところで、そのひろがる世界を、はるかに見晴るかして、前田くん───、
目の前には見たことのない世界が広がっている! 吹きつける風がこれは夢ではないとオレに教えてくれるぜ。
おっほ~~。
その、鼓動が伝わってくるような、そんな言葉ですね。
おしむんしセンセイのこのドリーミングスクールの世界にピッタリの言葉。
なにげにキマってるいいシーンやなぁと思いました。
んで、着地して、女の子が「あーたのしかった」とかいってるのに対して、プズズープ氏が、「うむ、喜んでもらえてなによりだ」といってるのも、なんか、テキドにトンチンカンで、おもしろい。この世界の乖離現実的なニュアンスがしっかり出てて、おもしろいと思う。
ところで、足元アップがありましたけど、前田くんの履いてる靴、かわいらしいですねぇ。
プズズープの家では、かれのお弟子さんたちが、奥からにょこにょこ出てきましたよ。おんなじよ~な顔をしたのが、つづけざまに三人ほど。
世界は───、かろやかで、はずんでる。、、、、、、
”ちもちも”、第116話。4コマめでわらってしまいますね。たそがれって<笑> いや、たそがれ的、そして、ねぇ、ちもちもの境遇についてのなんか物悲しそうなことが3コマめまでで、たしかにでてくるんですけど、で、4コマめ<笑> いやぁ、あっけらかんとしてますなぁ。こんなこといっていいのかどうなのか、、、ちもちもらしいなぁ、という感じで。底が抜けてますよねぇ、人生を正面きって支える、そんな、、、。ひょっとしたら、底が抜けたもん勝ちかもしれない<笑> いや、真実は、その表面的な振る舞いの奥にこそ、ちもちものたそがれが、、、(ほんまかいな)。
あとその一個まえの、”手作り2”も、なんとなく、微妙なところをくすぐられる感じで、好きなんですけど。ん、と思って、手作りの1も読んでみたんですけど、ちもちもの舌っていうのは、どうなんでしょうか。けっこう、肥えてるもんなんでしょうか<笑>
吉原マンガソムリエが『革命戦士 犬童貞男』というマンガについて語っていますけど、このひとの、、、もぐら叩きで、もぐらたちがいろんな場所のあなからぴょこぴょこ出てくるような、、、そんな奇襲攻撃のような味わいのある、、、文章をよんでいると、その、語られているマンガが実際読みたくなってきますね。でも、それで、吉原ソムリエが前にひどく褒めてたんで、その『からん』というのを気にしてて、すこしして買って読んでみたけど、まあ、俺としては、、、やったんで<笑> ひょっとしたら、『からん』やったら、マンガ作品自体より、それを愛好しその世界に入り込み自身がとらえる魅力を語る、、、ソムリエの文章の方がおもしろいかも<笑>(俺的にはね) このすごい題名のマンガの方はさて、どーなんでしょうか。気になりつつ、けれど、前回の不成功のことを思いつつ<笑>
おはようございます。三月になりましたぁ。くれおです。
突然ですが、、、CHJセンセイ語録デス。
俺の持論でこんなのがあるんだ。『何かで身を立てようと思ったら同じジャンルから影響を受けても意味が無い、違うジャンルから吸収しろ』ってね。俺は漫画を描く人間だからこそ漫画以外のジャンルから学ぶってわけさ。漫画を描くために漫画の影響しか受けていなかったら手詰まりだよ。発展させる事は出来ないね。
おもしろい言葉ですよね。たしか、かの手塚治虫大センセイが、赤塚(不二夫)さんとか、当時の、、、これからのひとたちに向かって、一流のマンガを描こうと思うなら、一流の音楽を聴きなさい、一流の絵を見なさい、マンガ以外の、そういうさまざまな一流のものにふれなさい、みたいことをいっていた、っていう話がありましたけど、これは、マンガと、ほかの分野、ということでいっているわけですが、もうひとつ視点をこしらえてみるなら、ひとりでマンガを描く、っていう行為自体のことと、そのほかのこと、、、とすりゃあ、そうやってひとりで描くこと、、、以外のことなわけやから、まあ、仲間とわいわい騒ぐこと、食べること飲むこと、働くこと、体調を崩すこと、運動すること、競技に興じること、ひとを好きになること、子供をつくること、仲間をおもいやること、問題に問われそしてそれに挑むこと、悲しむこと、思いっきり笑うこと、、、すなわち、じんせいを自分一流に生きること、というのがあって、その他のあらゆる人生の面として、拡散し多様的にひろがることと、それをある表現領野の作品として集約すること、これが、まあ、根本にあるわけですね。
マンガ表現と、それ以外の表現(たとえば音楽、たとえば絵画)、
特化的な一行為(マンガならマンガを描く───作品形成)と、全般的な人生(一行為に限らずこころの領域にもひろがっているもの)。
要は、その世界───マンガ表現、描くという特化的な一行為───のそとで、一流のものに触れ、じぶん一流の人生を呼吸することが、一流のものを生み出す、また生み出したものが一流となる、要諦なんじゃないでしょうか。CHJセンセイの場合は、最新作にして、会心の作である『MURDER COP』によっぽど、、、顕著であるように、───”現実を殺す”、、、その骨子的要領で、作品を、あるいは、マンガを描くというその一行為自体を、みずからの衝迫的(だろう)動機付けに従順に、ひとつうえの次元に、、、浮き立たせている。このひとのそういう、生における、創作態度自体が、きわめて、表現的で、作品的(収斂的)なんだろうと思います。だから、『MURDER COP』も『アンジェリカ』も、読み手であるこちらが唖然とするほど、純粋なものになっている、、、。なぜなら、そこには、或る表現様式、あるいは、マンガを描く、ということ以外の人生を、あんまり感じられないから。もちろん───、表現レベルははっきり図抜けて高いんやけど、CHJセンセイの作品には、そういう、、、そこぬけの純粋さのようなものが、わたしにはときどき、光り輝いて見えてきます(なんて無垢なんだろう、、、みたいな感じで)。
そういう、わが道系・天才的自然人としての、CHJセンセイの言葉なんだ、ということですね。
作品はもうすでに超絶レベルですけど(『DEATH METAL』を、『エイリアン & ジェラントフィリア ...アンド ザ ジョックス』をみてください)、なにか、、、このひとは、ひととしても面白いですよ。ほんとに、なにか、わがみちを行ってる。だから、最初に引っ張り出してきた言葉も、当たり前っちゃあ当たり前なわけやけど、それはふつうの表面的な意味でとるなら、ということで、それは通念、みたいなもんでしょう、そうではなく、自然の言葉としてとらえる方向でいくわけです、そしてそれは、そう生きる、現に発言するひとがそう生きている、っていうことで、このひとは、言葉と人生の距離があんまりない、、、そんな気がしますね。そういう言葉としてとらえてみようとするわけです、ひとから離れた通念のような言葉ではなく、、、そうすれば、作品と同じく、このひとの言葉が、けだし、純粋で、真っ直ぐなものであることが体感できるかもしんない。わたしたちは、しらず、もっと、ごちゃごちゃしていて、拡散的だ(それは悪いことではもちろんないんやけど)。ただ、一方で、作品的に収斂している、っていうだけやと、単なる、おそるべき下手の横好き<笑>化してしまうおそれがあるんやけど、そこに、加えて、能力の練磨、おそるべき達成があるわけですね。その各表現内容をマンガへと収斂・合成する手腕、高い見地、自身のこの世での、おそらく存在の理由に抵触するようなもの、などが───。そしてその創作態度が、また作品内容こそが、現実をほろぼしつくすような感じで、天才的に自然的なものになっている、、、ということなんです。このひとの表現活動、その作品には、その程度の高さの達成も含めて、表現にまつわるものの、核───、が、なんか、露呈しているような気がします。
しめくくりに、もうひとつ、そんなCHJセンセイのおもしろい言葉を、紹介しておきましょう!
AF「意外だね。アメリカナイズドされまくりの君が昭和の日本を語るのかい?」
CHJ「そうさ。決してクールというわけではなく、アンクールなグルーヴがあったけど、
今の骨抜きにされたジャパニーズカルチャーにはない独特の殺気のようなムードがあって
ああいうフィーリングには影響されたというか、ああいうノリを出したいと思うね。」
AF「そう言えば君の漫画には所々でそういった古臭い、オールドな貸本漫画的な
要素があるような気がするけど、そういう事だったんだね。」
CHJ「その通りだよソウルメイト、あの頃はありとあらゆるモノが黎明期でね。
漫画にしろ、プロレスにしろ音楽にしろ、手探りであるが故の凄みというものが
いろいろなモノからプンプンと放たれていてね。実にパワフルさ。」
AF「バックドロップがまだ岩石落としと呼ばれていた時代だね。」
CHJ「そうさ。今現在だって病んだ狂気に満ちているけど、
あの頃の狂気はまた別物だよ。」
こういう言葉は、単純におもしろいですよね。CHJセンセイの栄養源が、さまざまな表現分野にわたることのみならず、バックドロップになってしまったものならぬ岩石落とし的な歴史的射程、とどのつまり、黎明期的(雑多混淆的)なものへの射程をもつものであることが、よく、伝わってきますよね。おれがおおいに魅かれるのも、このへんのことを、CHJセンセイがその身におおく、きっと引き受けているからなのでしょう。時間軸的にも、同時代におけるその空間的にも、栄養源の射程がめっぽう広そう、、、ですねぇ。
今回は、なんか、ちょっと大作感がありますね。
回復。からだの調子がくずれてしまって、ねこんでいた状態からの。とともに、そのいつものちょーし、神経質の、カイフク。”ちもちも”、最新話。
橋田センセイ『自転車』、最新話は”ギター”、のお話。
ふふふ、、、すっかり忘れてたけど、そういえば、前のギターのお話で、お手伝いさんが、ふたりが遊ぶ部屋の扉を隔てて、そこで、しゃがみこんで、はりきったすごくかわいらしい表情をして、メモをとってましたね<笑> それにしても、ギターのお話、、、すぐにつづきがこない感じが、、、にくい、、、んじゃないですか。お父さんのギターの準備時間なんかとリンクするような気が、、、間合いが、ね。で、いざやじぶんの目の前に、やってきたきた、ギターちゃん、と。よかったね、たまきくんっ。
ところで、たまきくんやあいつくんは、将来、どうなっているのでしょうか。その日その時、かれらはなにをして、自分たちの住まう国に、税金をおさめているのでしょうか<笑> さだめし、その前途には、あかるい未来が待っていることでしょう! 、、、ぼぉ~と見てたら、つい全部観てしまいました、ちょい前放送分の、『朝まで生テレビ』───。めっちゃ、おもしろかったなぁ~、なぁんか、ステキなひとがいっぱい出てた。う~~~ん、さあさあ。、、、、、、二月もご愛顧たまわりありがとうございました。当月ものこすところあとわずかとなりましたが、みなさまにおかれましては、よい、、、月のトドメをッ。───くれおでした。
みなさん、こんにちはっ。くれおですっ。YEAH!
おしむんしセンセイ『ドリーミング スクール』、すこし時間があいたので、また1から読んでみました~。
6年1組は前田勇気くんがみんなの中心にいます。
ある種の草のようにはねあがった前髪、ヤンチャ気質、つばつき帽子かぶりに、すね辺り露出ズボン。履いてる靴にしろ、いったいに、生命力にあふれ、彩りゆたか、です。
副題みたいなのはこうなってますよ。”6年1組異世界修学旅行ぼうけん記”、と(さあ、これをそのまんま受け取ってひらいてみましょう!)
6年は1組、前田くんのクラスメートも、いっろんな顔ぶれ。ぞくぞく出てきます。わんさかわんさか(かれらひとりひとりとの、その短い面会に、おお!いそがしいッ)。
絵がおのずからコマをわたっていますね。
顔が大きく、つれて、目がパチクリとおおきくひらかれている。
服、靴とか、女の子のリボンとか、それぞれの柄とか、あと髪の毛の感じとか、多様で、いきいきしておもいっきりジャっっっンプ、しているかのようです。
それらからして、また、それ自体が絵であることを含め、外観強調的、外観特性的、ですね。
総合的にマンガである、ということはともかく、絵がコマをわたっている、というのは、そういうような意味合いで言っています。コマもそのほとんどが大きくとられ、絵中心的であることに関して、ずいぶん協調的でうまくいっているなぁ、、、と。センス・ピカリ的で、かわいらしく、イラストチックで、外観中心的───、ンなマンガです。
たとえばここにある顔たちと、現実のひとの顔、ということになれば、けっこう、現実の方は隠れて(かげをひそめて)しまいますね、特性が。けど、現実の方は、もっと、総合的な質がありますよね、わりきれないような、、、粘り気のある、、、ね。そういうものはまあ、小回りが利かないばっさりとした手つきで、特性の特化的描画とともに、割り切られ削がれてしまう、、、といったところなのではないでしょうか。
そういう人間に対する割り切りが、おそらく、作者センセイの描くよろこびとともに、息づいています。前田くんをはじめとして、6年1組の多彩なる面々に。そういう意味じゃあ、しばりをそうした具合にとっぱらってるから、あるのは作者センセイが見る人間の(わかりやすい)特性、または作者センセイがのぞむ特性、かつそれらが装飾的となって具現化したうえ織り成す彩りその豊かさ、、、みたいなもの、───で、現実世界に対して、自由なる境地、になってますね。
そういうものが、継続的に───、つむがれて、つむがれて、作者センセイにおいて、ずっと、ずっと、よろこばれて、よろこばれて、、、花ひらいています。
絵をみてて、自由へと飛ぶ作者センセイのこころにふれるので、たのしいです。
現実社会の重力が極端に希薄やから、かずかずの特性が、わかりやすく生徒たちその姿となってくりのべられ、また、かれらの衣装は造形とか組み合わせとかが多様で多彩で、そういう意味じゃ強調・衣服・外観的に洗練されてる。ある程度生活の基礎が満ちてそして尊ばれる自由、、、目の肥えた衣服先進性<笑> そんなようなものが(なんのこっちゃ)<笑> みてとれます。
表現もね、なんか、スタイリッシュ、ですね。だいたい。なんか、うまいことやってる。ダサ~、みたいなことがない。うまいこと、スポットあてて、バランスとって、外していない、ですね。うん、適宜、要領を得て、キマってる感じがします。
意識的な、、、センスがあるんでしょうね。
絵も、みせかたも、イケてますよね。
話は、これも、おおざっぱ・わりきり型で、そぎ落とし系です<笑> 修学旅行のバスのなか、わいわい騒いでいたら、運転手がナンカで、なんかとんでもないことに、、、それから、これまたとんでもない思いつきの名前の人種のこととか、異世界のことが出てきます<笑> いまのところの感じでいえば、さきにいったような意味合いから、現実におおくふれるもの、というよりかは、現実の自由な精神のカタログ(特性的な性格の生徒たち・洗練されたかれらの衣装・総じてそういった世界構築、作者センセイの描くよろこび)といったものを、みるべき、、、マンガなのでしょう。
まだまだたくさんあるみたいで、またつづきよむかもッ、です。
その完成が示されていたので、門をくぐってみました、、、あくとセンセイ『ざんねんな魔法少女 弐』。弐、となっていますが、そしてそれにはもちろん壱、の存在があるんでしょうが、壱は見てない、、、か、あるいは見たけど忘れてしまっているか、、、です。よくわかりません(ちらちらっと探しましたが、発見に至っては、、、)
先月まで、ヨーロッパのどこかに住んでいたという、佐藤イザベラさんが転校生としてやってきて、教室でみんなに紹介されていて、まあ、もうすぐに、魔法少女・愛瑠ちゃん(保健室のベッドで寝ている)に急接近して(おなじ布団にもぐりこんで横にいて)、愛瑠ちゃんをおどろかせて、んで、「私の初登場シーンに不在とはっ!!」といっているのはおもしろいですよね。まあ、創作自体を作中人物が口にしたりするのは、穴が開くような感じはありますけどね、、、ちいさなヤツが。一長一短、ですね。たぶん、そういうのに手をつけるのは。穴が開いて、その世界を不本意に揺らす、、、風がはいってきちゃう。その場の、、、たとえば、、、おもしろさと引き換えにね。
そこまで達成しているもの、を、埋まっているもの、と言うとすれば、見てて、埋まっている(だろう)ものは、やっぱり、ポップな感じ、というんですかね、あと、女の子たちの可愛らしさ、ギャグ精神、、、みたいなもの、かな。おもしろいっス。
魔法少女生み出し元(???)の不気味な髪型不気味な形相不気味な目周り<笑>の魔導士が出てきますけど、その手前で、戸をガラガラっと引いて、くつさき等かれの足元がうつされているのがなんとなくうまいなぁと読んでいて、瞬間、思いましたけどねぇ。導入として、そのあとの登場のコマと明瞭な緩急、明瞭な差異がある、、、なんかコマワリが生きてる感じがしましたヨ。
そこで───、埋まりそうでいて、でも、埋まっていない(かも知れない)もののことを言うと、線が細い(物理的に、というよりかは、心象として)、なにか、作品をひとつのまとまりとして統合する核のようなもの(そうですねぇ、たとえば、つよい生き方、とか、思想とか、作者がこちらへ「くらえ!」とばかりに打ち出してくるようなもの)の気配がうすいのかなぁ、、、、だから、埋まっているものであり特性であり表現に至っている良質さが、それぞれとしてはあっても、まとまりを得ず、ばらけていってしまう感じがあるなぁ。それは、作中にみられるむら、といってもいいようなものかも知れない。
ゲームセンターでいかんなく大暴れしている、、、十七の夏休みに、ゲームにはまりすぎた故に、進学校にも関わらず勉学への興味は薄れのちに中退!! それから十年、二次元の世界にどっぷりと浸かり抜け出せんようになって女の基準も二次元になって三次元女がブサイクすぎて、、、これ以上犠牲者を増やしてはいかん、、、と言う敵役のとことか、パーンとはねてて、おもしろいんですけどねぇ。ひっじょ~~~に。こういう、、、ところどころではねてるんですけどねぇ。そう、、、過去のいろんな作品も。
そういう具合に、、、すでに達し、埋まっているものと、けれど、あと一歩感、埋まりそうでいて、まだ、、、埋まっていないもの、なんかを感じますね。
とがったことも出てきますけど、基本、なんか、やさしいですね。ものごとが、作者センセイのやさしさの濾過を受けてますね。だから、きついことも、柔和さを得て、中間的なものになってますね。そのままきつい、、、のではない。絵柄も、いききらず、こちらへ絶えず折り返してきてて、やさしい。マイルド、なんですね。漫画という表現方法に対して、ちょっと、気を遣ってるんじゃないですかね。もっと、ときどきなら、柔和さを得て中間的にまとめようとするものなんかを、突き破ってもいいと思いますけどね。そう、ちょうど、さいしょの、作品のなかのイザベラが、作品自体に言及するように、漫画がひとつの漫画という表現である、という大前提も、もっと、ひやかすような心根をもってみてもいいんじゃないでしょうかね。あくまで、これまでにあった、マンガというものにとらわれすぎてるのかもしんない、、ですね。もっと、はみだして、オオコケしたりして、、、自由にやってみてもいい、、、とか思いますけどねぇ(いや、でもそれは、オオコケという成功を手に入れろ、ということですが、、、めちゃめちゃむずかしいのかも、、、しれないけど)。
しっかし、みるにつけ、すでに埋まっているもの、、、が、たしかにそこにはあるっ。
いけ!いけ!!魔法少女。
GOGO!!!!あくとぉ。
”沙織さん”が裕君におやつをもらっている、、、たべている、、、。弟が、植え込みのかげに隠れている、、、。
姉ちゃん、、、身内の、年上の女性、、、のつよさが目立つなぁ。反対からいえば、弟たちの、よわさ、、、さしこまれ具合。強者としての姉ちゃん、、、!
むかしの、”おもちゃ屋”の件で、告げ口(お母さんに)。公正平和機関(???)お母さん「裕にちゃんとお金を返しなさいよ」、、、。
”ため息”、ため息、、、。なにかがこもっている、、、意味のある、ため息。姉のよこで、弟がつく、ため息。たてものの足元、つづく、、、掘割のよこで。
水彩画だといわれる、絵がキレイやなぁ。背景とか、服装とか。念がいってて、偏りがなくって、中立的で。
”ドライブの朝”に(あらためて)見る、ケヤキの木。裕君、、、あらためて、じぶんの手のひらをつかって、ケヤキの木にふれてみ、、、。感じる、感じる、、、。
くるま二つ。先導するくるまにて、地図をみそこなった裕君、みなで、迷う、狭い”山道”。狭い山道、、、。同じく先導するくるまにて、運転する、俊二くんへの、信頼の話題をよそに。
”もちろん”! もちろん! ちいさく悩める裕君のこころがわりも受け入れ───、オールOK! WELCOME!WELCOME!
瀬山さんのケヤキの”落ち葉拾い”。その落ち葉拾いにて突かれる裕君のまたその性格傾向(常識の欠けぐあい、、、???)
身近な、、、”嘘つき”の出現。あとであとで、、、すぐに、、、それはすべて、わかること。
かかわりあう上での、”約束”。おれたち(わたしたち)のひびのいとなみ、、、。気軽にでも、、、ちょっととりかわしてみる、、、約束、、、。
ケヤキの木陰で 作・カズト (製作期間・06年8月~09年3月)
いま、三回目読んでました、CHJセンセイの新作『MURDER COP』!!!
天才やね。やっぱり。
ここまで純粋な表現も珍しいでしょう。
で、もう、ゼンブがキマってるもの。表現する側の余裕を感じるよ。めちゃめちゃカッコいい。今回はもう、あれこれいわんとこうと思います。いや、言おうと思って細部をいろいろ見てたんですけど、、、。まぁ~~~、かっちょいいね。
CHJセンセイは純粋に、作品としてひとりの男を立てて、現実を、痛快無比に殺しつづけています。
現実の自由なる殺害、抹消、、、これほどまっすぐな、それでいて滞りを感じさせない表現も珍しいでしょう。終わり方は、あれ、これで終わり? と一瞬思いましたけど、まあ、すばらしいッスね。圧巻、ですわ。ひとつひとつの場面、ひとつひとつのコマがほんまにキマってる、カチっ、とね。三回目読んでてやっぱり面白かったけど、何回読んでも楽しめるかも。
まぁ~~~、面白い。
もう、なんか、てだれのマンガになってるもの。
めちゃめちゃおもしろい!───『MURDER COP』!
ほんっとに、おもしろい!───『MURDER COP』!!───『MURDER COP』!!!
MURRRRRRDEEEEEER COOOOOOOOOP!!!!!!!!!
、、、ンな感じで、あとがきまで含め───、すべて徹底して、出来上がっています。脱帽、です(それにしても、先月の作品にしろ、今回の『MURDER COP』にしろ、さまざまな視角の傑作を連発しまくって、いったいこの人は、ひとり、、、どこまで行くのでしょう、、、?)
サイト・レノトロシーのあるじ、小宮山さかなセンセイ、、、そう、もう何度もこの場で言及してます、かつての、黒澤帳(とばり)センセイ、、、のことです。ついでにいえば、レノトロシー、っていうサイトの名前も、いつ変わるか(このセンセイの傾向からして)、、、しれたもんじゃありません<笑> で、要請をしてみて、結果、いい絵もかしてもらえて、衣替えも出来たんで、ひっさびさに、小宮山センセイの作品、これにわたくし、のぞんでみました。
で、これ(題名、、、)も変わってますよね!? 多分、、、。現・『寄居虫系』、、、まえはたぶん、寄生虫系、、、やったと思うけど(えっ、オレの見間違えやったんかな??? ん~、、、いや、見間違えやった、かも)。
いやぁ~~~、まあそれはともかくとして、なんか、、、なつかしいッスねぇ。
だいぶ、かわいらしいですよね、いま見返してみると。絵柄とか、雰囲気とかが。
内容的には、去年の夏ごろ、読んだ印象とあんまり変わんないですよねぇ、たぶん、もう、10回くらいは通読してると思うけど<笑> ひとり、孤立する精神は、世界を見抜く目、ですよね。そういうものがぽこぽこっとたちあらわれてくる。で、それと、それの外の世界との辺縁的な関わりが、ひとつに、この場面───、
髪の長い女の子「あ! ちゃんと鍵を閉めたかしら!?」
髪のやや短めの女の子「閉めていたわ」
「どうして分かるっていうのよ!」
「この目で見たもの」
「視界ですら歪むというのにあなたはそれを証拠にもってきたのね。あなたの視界はそんなに確か?」
「この前の視力検査で2.0だったわ!」
「、、、。
やっぱり帰る」
さいしょの、髪の長い女の子の方が、世界の見通しを代弁しているようですね。でも、ふたりは、友達として、つながっている、、、おどろおどろしく、まあ、突きつけるように、孤立する精神その世界の見通しを「視界ですら、、、」と一方の女の子が口に出してみせるのですが、もう一人の、世界に連続する(だろう)髪のやや短めの女の子の方は、そんな発言をさっぱりとしたもので、また、あくまで、自己の世界流に解釈したうえで、”視力のこと”なんかを言う、髪の長い女の子にしてみれば、自分はそんなことはちっともいっていない、といいたいかもしれませんし、その優等な視力であるところの視界すらの歪みその怪しさのことをいっているのに、というところなのかも知れませんが、あっけらかんと自分の世界の理法で応じる相手とはうまくかみ合わない、、、けれど、そうして、本質的に違う世界に所属しているからこそ、むしろ、対立しあうことがなく、友達でいることが出来ているのかも知れませんね。世界を深く掘り下げようとするものと、それを通常の世界へと取り戻そうとするもの、このふたりの合流している地点が、ひとつの友人としての付き合い、というこの、現象面になっているんでしょうね。と同時にしかしそれは、かならずしも安定しているものではない、、、互いが互いの世界へと、という、ひっぱりあい(力の作用)がふたりのやりとりのなかで生じている。
この世が物質で、視力を展開する”この目”というのも物質であるとすれば、また、抱きしめたときに伝わるひとのぬくもりも、物質(が展開するもの)、、、でしょう。おこり、あるいは自分から離反していこうとする世界を掘り下げようとする女の子───、彼女を、自分の世界の側へ取り戻そうとする女の子がごく自然的に用いようとするのが、この”物であること”の理法なのです。
「お人形がいるもん」
「お人形は寂しい思いをしても抱きしめ返してくれないわ。
でもわたしなら。
ね?」(といって相手をだきしめる)
世界を独自に掘り下げようとするものと、ふつうの物の世界へつらなる女の子、、、ふたりのこうした”存在”の綱引きはどうなるのでしょう。、、、、、、どうやら、やや短い髪の女の子の方が、髪の長い女の子の方の家の中へと、取り込まれてしまったようです。ここで彼女を(ふつうの物の世界へ)ひっぱり出す、という点からいえば、それは、失敗に終わってしまったようです。彼女の家は、おそらく、彼女の思うままの、彼女の世界がすっぽり収まる否定的要素のないような世界、、、なんでしょう。一度、そこに足を踏み入れ生活をともにしてしまうと、その世界の理法にこそ、彼女は染まり、すっかり説得されてしまう、、、というながれ。取り込まれた相手は、ベッドのはしに腰掛け、いまや、やや倦怠感などをその表情に反映し、相手の、、、世界を掘り下げようとし世界その物質的説得性をそのままに信じようとしないそんな相手の理法を、最後の最後、代弁するようにさえして、こういっているのです。
「わたし、この部屋から一歩だって出たくないわ」
ふつう、自分の世界のそとにあるひとのぬくもりをさえ自分の世界のなか(家のなか)に取り込もうとする様子、かつ、そんな欲望の様子が、ここには、、、渦巻いているような気がします。
ある精神的世界の意志(髪の長い女の子・サキちゃん、その意志)、として───。
作っているひとは(描いているひとは)、少女瓶詰地獄管理人、という方です(あらためて、なんかすごいお名前ですね。描いている内容とは、不一致しますヨ)。
二条くん。七瀬さん。ふたりは高校生。
手作りの、お菓子にこもりうるもの。
時に、手作りのお菓子にひっかかる、ひとの、気持ちのはしっこ。
二条くん、告白代行者の、トモちゃんの、涙にあせり。
廊下にて。
ふられたのかな───、中澤くん、その相手に対する自らの振る舞いを修正する模様、いたく、廉潔で。
ご主人慕う子犬??? にじょ君とアズマ君。ファミレスにて。
体育着すがた。二条くんがふいに思い出し、とびかかり、その背中におもいっきり、のしかかる相手が太子くん。
(ところで)
長谷部くんと海綿体(そういうキャラ処理)。
彼女の笑顔の封印と、笑顔の封印の解放に出合い───。
つれだって、抜け出した、すべてのものが眠る授業のあいだに。
二人は。
二人だけが。
「七瀬は本当に 笑うと可愛いんだよ」
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
こんにちは! いまちょっとマンガ読む気があります。くれおです。
化けましたね、あるいは、一面をあわらにしましたね、、、『ちもちも』第107話は”おこるよ”。愛らしい、めでられる、、、といったような見た目のちもちも一同、、、けれど、そのなかに───もともと───紛れ込んでいる、、、感のある大もゆもゆセンセイの存在、愛玩動物的世界を基調としていながらも、そういった違和感をもりこんでいるおりなしているつけあわせている、、、多く一面的または一元的に成り立つ世界その変移が、つまりそういった生きること現実世界を独自に咀嚼するようなまなざしが、ちもちもの魅力を構成する要因、、、であるとすれば、やっぱり、ほよほよの口、そのエイリアン的展開も、同じく、そう。獣ぶり、違和感生命体ぶりを思い出させてくれるよう、自身の怒りに際して、その姿をわれわれに披露してくれます。”ちもちも”は、ある意味、この世の中の、翻訳なんですよね、作者べっこう飴センセイによる。ドイツ語を日本語に、、、のように、この世の中をちもちもの世界に翻訳している。表現はもとより、この世なる言語を個人の言語に翻訳また翻訳であるところの創造をする、、、作業なのかも知れませんね。”ちもちも”の世界、べっこう飴語は、わたしには多くの場合、魅力的言語世界、ですね。世界の変移されたものの、ひとつの形として。、、、ビンビン、共鳴いたしております。
雫センセイのマンガ、はい、『少年時代』。
え~と、第3話の13まできて、そっから、作者雫さんによる、物語(主に絵柄)のさいしょからの見直し・描きなおしがはじまったんですよね、、、でぇ、今日、描きなおしたことにより新・少年時代と題された、第1話の29までの、出来ている部分を、読みました。う~ん、あいかわらず、すばらしいですなぁ。やさしい光につつまれるよ、この方の作品。そうですねぇ、転校生に対して、廊下で、足を突き出すシーンとか、あるんですけどねぇ、ああいうのも、なんというか、ほどがいい、無理がない。ああいうのも、もっと、イベント性とか、事件性をもたそうという、作者の影がちらつくものやと思うけど。ゼンゼン。このひとのマンガに、一番、物語を感じますね。登場人物が、その世界の空気を吸って、たしかに存在している感じ。こういうのを、わたしは、有機性と呼びたいんですけど。その世界で、その世界のひとびとがたしかに生きてる感じ(有機的統一)、ですね。ひとが存在してる、って、おれはなにか得体が知れず、柔軟なことやと思うんですよ。そういう、やわらかさがあるんですよね、このマンガ。つかみどころがない、というか。去年読んだマンガのうちで、おれは風漫画賞をいう賞(名前だけ)をこの作品に贈りましたけど、ほんと、風とか、光、そういう、実体のないような、やわらかさを感じるんですよね。(おれのなかで)あんまりはっきりとはしていませんけど、描き直しによって、表現は厚みを増しているでしょうね、ぜひぜひ、さきを紡いでほしいですね。いやあ、これは、傑作のにおいプンプンですよ。まあ、いまのところは傑作でしょう。だいだいマンガを読んでて、勘違いであるとしても、おれなんか、見切った気になる(ははぁ~ん、こういう感じか、みたいな)ことがまあ多いんですけど、いい意味で、やわらかくって、底が知れないですね。この『少年時代』は。でも、変に先鋭的で、読み手を突き放すようなこともないんですよ。だから、その世界を、つかめそう、、、、、、でも、つかめない。しっぽを、正体を───、つかめない、、、ンな感じ、ですね。それでいて、作者がもったいぶって核心を隠してる感じとか、ごまかしてる感じ、みたいなものを感じさせない。作品のなかに流れる物語に導かれていくことが、すっごく、気持ちいい、、、んですよね。まいりましたね。ご本人いわく、マイペース人間、だそうですけど、更新の感じとか見ていると、そんな感じ、ですよね。それもこれも含めて、入れ込んでいない、あるいは、(少なくとも)入れ込みを感じさせない、といったところでしょうか。それがいい感じで、作品の、やわらかさとしてあらわれている。これはぁ、なにか、とても素晴らしい作品、、、ですね。未読の方は、この作品の空気に触れておいて、まあ、損はないでしょう。『少年時代』と題された作品の、その、光や風にふれられるわけですから。そうやって、自分自身が気持ちよくなって、まさか、損をした、なんてことはないでしょう。
へい。くれおです。ようこそ!あしもともまあ、わるいなか。ささ、どうぞ。
橋田センセイは『自転車』最新話!
一個まえの”休日”をちらと読み直し、のぞみました”料理”ィ。
なんですね、あいつくんいわく、”包丁持ったらいかん気がするっちゃね”というのは、笑える。あいまいな感じですね<笑> グレイゾーンというかね。
その場のナベちゃん(料理するひと)いわく、”包丁は持つために作られるんやで”と。その言葉にそうと、あいつくんのは単なる料理せん人間あるいはそれをメンドがる人間の、キベンじみたもののようにも思えるし、危ない、とか、武器的な、とかいう感覚でいやあ、一定の説得の感じをふと、でも、持ちますよね<笑> そういう意味で、あいまいで、グレイな感じを突いてるような気がします<笑> ちょいと、笑えますね、にんまりしてしまう、という。
ひさびさで、新鮮ですね。やっぱり、ともだち感にあふれたすてきなマンガであることを、よくよく思い出さされますね。ともだちとともにあることとは、こういうことなんだ───感がよく出てますよね、その良さ、日常の、、、しずかだけど、、、つよいつよい肯定の感じ。目立たない、人間(共同)運営の、基礎的な歓喜。いいっスね。
こういう良質さに出会えることが、わたしがこのサイトをやってることの意味、その、ほとんどすべてなのかも、、、知れないですね。
ではまた。
『ちもちも』痛快100話越えの、、、そして、、、第101話から、”カゼひき編”がはじまりましたね。
”ウミウシ”なる生命、、、のほよほよが風邪を、、、。
ではでは。なんじゃかんじゃ、なんじゃかんじゃ。
第101話は幕開けとなりましたね。題名は”おでんわ”、、、で、題名にそうオモシロ内容はおでんわにて、おおいにたのしそうに話しているちもちもの相手がセールスだっ、というところで、主軸がそれで、ラストのコマにて、カゼヒキ・オンザベッドなるほよほよがやわらかく状況をつっこんでる、、、風です。ふだん、電話には、ほよほよなんかが出てんのかなぁ、でも、いま、動けんから、ちもちもがたまたま出て、んで、セールス相手に無邪気に長話でもしてんのかなぁ、という、、、。ちもちものかかる様子と、カゼひき編への引き込みの、ふたつの相がみてとれますね。
102が”おじや”で、103が”おねんね”。
横になったほよほよの口にさじにておじやを運ぶちもちも、で、そのあと自分にも同じさじにておじやを。まるでかわるがわる、とでもいった式に。ほよほよがちもちもに言うわけです、うつるよ、と。これが、つぎとのつながり。つぎのお話では、さあ寝ましょうとちもちもがほよほよにやさしく食後の睡眠へといざなおうと布団をかけてあげ、、、でも、それに尽きず、自分もちゃっかり、そう、おじや式に、、、べったりくっつき、ほよほよの横で寝ようとする、、、ほよほよがここで、うつるってば、と。102と103では、”うつるってば”で連携されていますね。
第104話”おくすり”では、犬頭・センジュナマコ身体が特徴のかわいらしくあしもと凝視すればいささかたじろぐはみはみが、ほよほよらのいる部屋におくすりをもってきて、そこに、ベッドに、ふたりが並んで寝ているのを見つけます。「!?」───と、はみはみはその様子を目にして、驚いていますね。で、これが第104話。
105話では、むいむいくんが登場。遊びにきた(ちもちもを誘いにきた)んですね、そこで、また、さっきにはみはみが出合ったのとまるまる同じ状況に、、、そう、ふたりが仲良くひっつきあってベッドで寝ている、に、、、遭遇します。104話と105話では、状況A(ふたりが並んで寝ている)があって、目撃者がいれかわる、という、そんな図式になっていますね。いずれも状況は同じです。ただ、105話では、”ぬくいよ”というちもちもの言葉が付加されていますが。それは、なぜ、ちもちもがカゼヒキのほよほよの横へともぐりこむのか、ということを納得させてくれるようですね。
で、最新話106が、”こおりまくら”、で、これはまた、犬頭・センジュナマコ身体のはみはみが、部屋に氷枕をもってくるわけですね~。104でははみはみは”おくすり”を、106では”こおりまくら”を、で、これがつながりですね。で、、、さらに、そこではみはみが目撃するのが、ふたり並んで寝ていたなか、アソビにきたむいむいまでが、ぬくいよ~というちもちもの誘いにのって、寝ていたぁぁぁ、という光景。これは意外でしたね~。むいむいがそういくとはっ、という、、、。
101話”おでんわ”で(でんわを主題に立てたカゼヒキ編としてのしゃれた)幕開け。102”おじや”と103”おねんね”ではうつるってばつながり。104”おくすり”と106”こおりまくら”ははみはみが部屋に運んでくる、、、つながりで、そして、おなじく104”おくすり”と105の”むいむい訪問”が状況A目撃つながり、、、となっておりまして、最後(まだつづくのかどうか知りませんけど)103話ちもちもの”おねんね”から、106話”こおりまくら”からの三人おねんねの大結末(同状況の発展形)、、、へと至っている、、、というところみたいなんですねぇ。
そんな、、、連想・連携的な構造がちょっと、みてとれるようですねぇ。
ちゃんちゃんッ。
まったく縁がないことを言い渡されるかのように、好きな人に見向きもされないのはつらいものですが、つよく相手を求める欲望あらばこそ、見向きどころか、一切、ほかを向かせたくなどなくなるものですが、しかしそうはいってもひとは道のうえ、さまざまな顔をもつもので、じぶんの知らぬ相手のある心やその表情に、かんたんに、嫉妬の火を燃やしたりするものですが、、、それもまた、わたしなる個人の生、道のうえ。
ご本人いわく、”いい年したサラリーマン”だということで、コミティアなる催しに参加されたり、ご自身の書かれたマンガを本にして通販したり、、、しているとのことであるZawaセンセイ『Private World』は気負いない世界がひろがって、わたし、1話ずつ、さいきん読んでます。のびのびしてる。音楽がかかわってきてます。構成は断片的、断章的、、、かな。でも、風通しがすっごくいい。ふつーの若い兄ちゃん、んで、ちょいと変わったような女の子、が出てきます。ほとんど、それだけですが。語り口に無理がないのです、それでいて、いわんとしていることが、こころにのりうつりにじむよう、伝わってくる、、、のが、ここちよいのです。ほんわか、そして、ぷりゅぷりゅしてます。
なお、うろうろしていて、あれっ、なんか見たことある(作者センセイの)名前やなぁと思ったら、偶然にも、そうとう前に、去年ですが、読んだ『創龍記』というやつでした。別の入り口からくしくもはいっていったんですねぇ、長い作品で、わたしは中途で投げ出してるんですよ、で、一瞬そういう因果もつ作品をふたたびここで読んでみんのもいいかなぁと気持ちが動いたんですが、、、でも、よんでなぁ~い。縁をいかしてな~い。とりあえずパスで。
あと、なんかね、ありましたよ、ちょ~~~~ど、一年ぶりくらいに更新されたことが示されたマンガが。長いですよ、一年は。これも、いいときに逢着したんじゃないかと思って、読もうかなぁと思ったんですが、よんでなぁ~い。そういえば、の、arareセンセイもそうですが、マンガを更新しないでほかに忙しいというのは、そう、各自の道の上、であります。リア充おおいにめでたし! ということでしょうな。サイト更新その充実、おおいにめでたし、反して、サイト放置のリア充おおいにめでたし、双方充実これまためでたし! ということですね! あれもこれも。あれやこれや。行き交い、挨拶しあい、かかわる道の上。うれしさびしせつなしやるせなしこいしぃ~~~~~、ということで。また。
ワァオ。
ちもちも~、カゼがうつるよ~~~。ほんと。カゼはしんどいよ~。あとのまつりになるよ~~~、めさきのおいしそうなものにひかれていく、、、そんなさまよりも、ねぇ。ビーケアフー!、、、でもでも、まあ、いいっか。あと、うつっても、いま、おいしいものを運ぶ口が透かさずおいしくなって、よろこびがわきだせば。それはそれで、、、ねっ。
そういえば、の、さぁ~~~いコロンっ、センセイの、むかしのそしてわれわれ多くのものにとってはの新作(つまりは旧作なる新作)、、、が、完結してましたねぇ~(アップが)(たしか)。ポポポッ。
そうそう、中田多哉センセイ、新作、これも、始動してました。おおっ、と、遭遇せし当時のわれのこころもち(日常につらなるうえでの、いささかのおどろき)。おおむね、わたしが感じる、ひょうひょう、、、といいますか、恬然たるその(センセイの)たたずまいにかわりはありませぬ。まだまだ、そしてもちろん、これからナノダッ。さて、どんな風になっていきますか。───その名もッ、『許容範囲』!
あと、、、そう、、、、
どうも! ようこそ! ああ、あなたにあなた! お忙しいさなか、よくぞ! ああ、わがよろこびのわきだす泉となりて、、、! 感謝! ですっ。、、、添えられた、あれがかかった、青い気味もつ色彩の目にまでとどく、かしゃかしゃと運んだ口のなかでこその歯ごたえをよこしてみせる、、、キャベツの千切りも、目に舌においしいものですね! くれおです。
───『ドリーミング スクール』。
それなる、、、親御さまの名前が、おしむんし、センセイ、となっております。
わたし自身は、第1章の、3話まで読みました、まだ、まだ、さきがひろがっていることを、しかし、確認しております。
そんななか、どんな世界が、そこには、ひろがっているのか、ということですが、、、、、、
そこは、まだ、開始早々だから、なのかも知れないし、きっと、そうなのでしょう、話のことより、スクールの子たちが前に出てきます。主人公のヤンチャですこしく道をそれた感じの男の子、めがねのなんかみせものにされたりしていた男の子、姉妹、スポーツ勉強、、、かかる文武に秀でたさらにはそのこころねもまっすぐらしい男の子、気がいかにも弱そうな男の子、担任のあんまり髪の毛のない先生、ほかにも、どっさり、わんさか、わんさか、どっさり、かれらと、かれらのつまりは顔と、着ているものが、目立つし、ハネテる気がします。おしむんしセンセイの、ちからが注がれているように思います(それが発揮され、かたちにまでとどいている)。
修学旅行の、みちにある、バスから、さてさて、異世界へ。(たぶん)冒険へ。
くりっと感満載の、ミニフィギュアのような、かわいらしい、そして、ゆたかなる面々が。、、、、、、画面をうずめるひとやものは、のびやかなものです。お話も、さきへさきへと、軽やかに、息をほぉほぉーはずませるよう、のびていっている、そんな気がしました。それは、作者なるものを軸にして、うみだされようとする感じ、ですね。そういったものに、たちあえることのよろこび、ですね。読もうとするわたしの時間はかけがえのないもののはずで、他方、うみだそうとするひとの内的充実(一定の強度<内容>をもつ作品をつくりうること、うみだしうるようにあること)その時間のありようも、おなじく、かけがえのないもののはずで、その上での、相互的なものとしての、うみだされようとするものにたちあえるよろこび、ということになるのでしょう。もう一度、取り戻そうとする意味もあって言っておくと、そこには、わりあい、自由な気のまざった、のびやかなものがひろがっていたように思います。
おれが思うに、子供たちのちらかったやりとりのなかには、類型的なものがおおくある、とともに、子供特有の、という部分もあることでしょうし、また、それと同時に、なにか、そっけなくって、とりつくしまがない、といった、この、ほかでもない時代に即した、全物質的、反射・生理的、黒か白か性みたいなものがいくらか出ているように思え、それはアイマイで過程的な精神の欠乏性をただよわせているようでいて、個人的には、そういうのは、興味深くもあります。
SoNoさんなんかもおおいにそうですが、話が、絵が、ひろがっていく、ということは、ある人間において、その世界をひらいていく機会(継続性・あるいは継続的意志、もしくは継続しているその実際)が恵まれている、あるいは、恵まれようとしている、ということですから、それは作品であれ、作品をうみだそうとする作者自身のであれ、そののびやかな、いきること、存在することのうぶごえ、その瞬間の創造を意味しているのでしょう。そういった、原初的な、いつになっても、けっして、われわれの身から覆われ得ないもの、、、基体的な、のびやかさが、もちろん、この作品にも気配として、ありますね。それは、まあ、ありふれたキャベツの千切りもそうですが、わたしたちがいまこの瞬間を一からやろうとするときには、たえず、新鮮で、ここちのよい瞬間に連携される、、、といったもののはずです。
まあ、おおく、惰性的な、連続する日常性のもとに、存在することのそのような始原性(瞬間の発生性)は剥奪されてしまうようなのですが。ときおり、かかる生命現象すべての、いってみれば、人間をも含めた───、作品としての───、この世というもの自体の、クリエイティビティに触れもする、、、、、、そしてそれは、およそのびやかさのようなものだ、ということ、ですね。
人間(読み手)と作品、または、作り手と作品の相互的連関、さらには、かかわりをもって、人間であること自体のその、作品性に触れる瞬間、と。ひとは、ある質的量的範囲を分かって、あきらかにして、それを作品として押し立てるひとつの作品である、みたいな、ね。マンガの描き手としての作者、その存在の作品性をも、ときに、感じますね、基礎的な、のびやかさ、、、その、瞬間が、うまれようとする様子、、、といったものに。森羅万象の作品的発生、始原性、ですね。
ってぇ、ちゃんちゃん。
ようこそ! そこなあなたッ。わたしです。わたしがくれおです。
鈴木結策センセイが作品に、、、のぞみ。
題名、ふたつあったうちで選んだひとつたるそれ、、、が、『宇宙海賊VS大きめのワタシ』。
孝司さんが出てきます、どうも、過去に、自己破産した人みたいで、かかるともかくもの罪によって、まあ~~~~、強制なる労働を課せられたみたいです、地球、、、、、、ならぬ別の惑星にて。4年、とかいってたなぁ、、、長いですね~~~。で、その期間をやりおおせたみたいで、いざ、あいする妻子待つふるさとへ、、、と、ところがあいにくの、、、。
絵柄、乾いてます。で、乾いたセンスが方々に感じられます。
単なるギャグかと思ったら、軽い感じと、重い感じの、中間領域をひらいていますね。
それに乗って帰る予定だった便で帰れないことになって、怒ってる孝司さん(そりゃそうや、4年とかの歳月、でしょ)の姿の遠目の感じの絵、個人的になんか、ちょっと、面白かった(2ページめ、4コマめ)。
つづけて、ケースみたいなんをどんどんと拳でぶって、っていう孝司さんの行動を受けて、やや、そうして修羅場ったあとの、飛行責任者(?)、一つ目多足(多手?)の異形生命体がほっといきをつきつつ、「野蛮な二本足め、、、」って言ってるのもちょっと面白かったですね。
3ページめ、ひとこまめ、肩を落としたよう、キャリーバッグを押して、とぼとぼと歩く孝司さんの上半身を越して、影となって浮かび行く宇宙船の様子、こういうのになんか、乾いたセンスを感じますよね。ごり押ししない、、、しずかなね。
11ページ最後のほう、孝司さんの身にふりかかる悲運についてのコマ、こういうの、なんていうんですかね、そう、最悪にして人間存在のライン引きに対してものさえの、均質的なまなざしを感じますね。なんていうんですかね。客観的な質、ですね。で、そのあとがオモシロイです。フーカーツ<笑> 笑いました。あと、医療民族<笑> サイコーです。
どちらかといえば、乾いた、平静な視座のセンスが光ってますね。それと、どうかといえばコミカルな、童心のようなものがちらほら芽吹いてますね。論理的なものと、幼いものとの混合によって紡がれていますね。それは、落ち着いた所産となって、われわれのまえにあらわれようとしています。均整がとれていて、はずさず、堅実、ですね。なんか、ちょっと、わかりにくいコマもあったような気がしますが、なんてことないです。いいあんばい、だと思います。ひっじょ~~~に面白かったです。
作品その世界観における、堅実的な興趣、ということでいえば、ちょっと、スミスケせんせいとか、思い出しましたかね。客観的で、均質的、ということでいえば、ですが。あと、SFちっく、っていうのもね。どっちも冷静な質、がありまさあな。問題はね、こういう平静さ、って、作品がブレイクするようなことから、けっこう、遠ざかる、っていうことですね。面白いけど、ハネナイ面白さになることが多いんですよね。それは、その客観的創作の質が主に知的な人為的な密度となることによって、そのひとを越える恵みがおりてこない、ってなことによるんだと思いますがね。案外、知的であって、乾いてしまって、紙背、あるいは物語の間接部分を満たす潤いがなくなっちゃってる、んじゃないでしょうかね。それは、きわめて、デリケートな部分ですが。そういうのはね、どっかに垣間見えたりするもんなんですよ。はっきりとした、意識以前、のようなところでとらえられる、、、といったようなものとしてあって、ね。
でも、今回、ひっじょ~~~に面白かったです。はい。うぃうぃ。
みなさん、ようこそ! おいでくださいました。わたしがくれおですぅ。
ワカタカ始動です! 記録によりますと、この方との出会いは、さかのぼるところ、去年ずーいち年は8月みたいっす。
なにがどうって、時代逆行性のファクターとして、自動的ともいえ───名高い、アパートと、ざしきわらしを配してらっしゃる!! それがかの作! 『ボロアパートの座敷わらし』!!
みなさん、ボロアパートに、ざしきわらし、、、ですから、ね、そこんとこ、、、おおいに、おおいに、、、くんでくださいよっ。ぷらばぶりぃ、アーバンで、サイエンティフィックなあなたがたよっ。
1~7まであって、その後、ぴぃたとうごきぃがとまってて、いつかわが頭からも消えゆきて、しっかし、ついこの前、ふとワカタカ基地のこと、”アパ・わら”のことが浮上したんで、とんとんとWEB階段をたどってそこへいったら、8があったんすよ。で、読みたいとも失礼ながらあんまり思わへんかった反面、読むまいとも思わない心境のうちに、ぽれ~とひらいてみたんです、かの作、最新分の領域を。、、、で、、、
ひとはだ、んな、ぬくもりがあるんですわなぁ、このひとの開いている時空には。がちゃがちゃ具合も悪くない。むしろ、幼さがうまく美麗な初心のようなものとして、機能してる、、、んな風情がありますわなぁ。ぎゃーぐー、ですけどなぁ、主な様子は。絵柄も、純朴で、まっすぐや。物心(絵柄と作者)の一致があるように思います。
ワカヤマタカシせんせいの作品、、、ぜひ、読んでみてくださいな。そして、お便りを出しましょう<笑> それが、答えだっ。
ホナ───。
みなさん、おはようございます。くれおです。
吉原マンガソムリエが最新記事にて岩明均プロの『ヒストリエ』を取りあげてますね。、、、いい感じの記事になってるんじゃないですかね。わたしの岩明マンガ体験は寄生獣───にじゅうまる! 七夕の国───にじゅうまる! 骨、とかいう単行本───さんかく、あと、なんか、剣の舞(やったかなぁ、、、)とかいう単行本───さんかく、って感じの覚えがありますね。”ヒストリエ”は読んでおりませぬ。
ある作者さん、その実体をAとしましょう、このAさん、わたしが昨年出合った当時のお名前が黒澤帳(とばり)さん、で、改名されて、歪都子(えつこ)さんになり、ほんのちょっと前ですかね、小宮山さかなさん<笑>に今回、おなりあそばされたようです。ばんざーい! めっでたいなっ、と。
SoNo女王閣下の『海のマリア』が完成してましたね。読もうかなぁと思ったんですけど、ちょっと、受け付けませんで、3、4ページめくらいで、挫折しました。海の描写がきれいですね。いろんなものがこもってる絵柄や。どろどろしてていい。天球にはりついたような雲もきれい。とっても魅力的。わたしにねばりがなかったので、読めませんでしたけど。また。
”ちもちも”の更新が滞ってますけど、べつに更新しなくてもいいので、作者べっこう飴センセイには、快活に過ごしてほしいですね。大阪の地より、てまえの愛の念をとばしておきます。こころばかりですけど。でぇ、どんどんつぶやいてほしいですね。
あと、昨日くらいに、”幕末チパング”っていう、サイトのマンガを読んだんですけど、感想を書く気にならない。あと、同盟してもいる沙夜センセイの作品もひとつ読んだんですけど、これも、感想が自分のなかで、いまひとつ隆起してこない。それと、”タロウ”となんとかというのも読んでたんですけど、これまたしかり、で、、、どうも不発(わたくし自身の)つづき、ですな。なにか、既存の視点の転換が自分のなかでおこったら、文章を書く気になったりするんですがね、、、それまでは、なんか、読み経た自分の経験が、モヤモヤ感などとして滞留するもんなんです。不消化感、とでもいうんですかね。主観的には、もどかしい、、、ちょいと、ヤな気分です。
みなさま、いかがおすごしでしょうか。小くれおです。
うわさの作者、少瓶センセイの”27”第7話をひらきましてござりまする。
まンず、はじまりの絵にて、なにをくっとんかいなぁと思っておりましたら、そういうことだったんですね。前回6話やったら、にじょ~くんの注射かなんかの男の背中の様子<笑>だったんですが、そういうこっちゃあ、いくたりかのつながりを付与されとるわけですな、本編と。
今回のシュッショクは、やっぱり、、、
放課後のあの感じね、よくは知りませんけど<笑> 横から陽のつらぬく、放課後という、あの感じ、、、ね。
しっかし、放課後の教室は二条くんのそばにて───、寝るかいや、七瀬さんっ。とつっこませておいてください<笑>
淡い眠りからさめた二人に、これまった、ぞくぞくと隆起する永遠の瞬間、ってことで。二条くんの背中がひとつの極で、七瀬さんの前面がもうひとつの極。かかる心理物理性(なんのこっちゃ)の成立とともに、極と極とが作用しまして、、、それみたことか、はい、永遠っ。───と。
ず、ズ回につづく。
はいっ、くれおですっ。
はいっ、天才Web漫画家CHJセンセイの登場です。
このたび、センセイの新作が発表されました。
さいきん、マンガに対する意欲が下降していましたが、やっぱり、うれしいもんですね。
題名は伏せておきます(いまさら、、、ですけど)。
わたし的な、採点をしたいと思います、、、100点満点中、100点ッ、です。う~ん、べつに110点でもいいですけどね。つまりプラスアルファしてもいいですが。とりあえず、わたし的には、満点です。
現代版、はじめ人間ギャートルズ、ですね。すばらしいです。
原人だか、猿人だかわかりませんが、かれらが、いのちをかけて、狩猟採集につとめるすがたと、時代がくだって、資本主義だか民主主義だかの国家体制に生存部位的である人権・人格を保障された時空のもとに自慰快楽を追求するもののその底なしのアホウなすがたかっこうと、別して、その原始性において、えらぶところがないんじゃないでしょうか。どっちも、原始生命的な気がします。かなり屈折してる(つまりあるしゅのその正直な姿において)とは思いますけど。絵柄もばっちり! 調和してます。───正解!!! な感じです。
故・谷岡ヤスジ大センセイのマンガ表現の、人間存在の根本性にも通じてる気がしました。
ひとつの短編として、カンペキ!!!───なんじゃないでしょうか。この短編に対して、きっと、誰も文句はいわないでしょう。スカスカなように見えて、表現空間はおもいのほか、充実してます。こういうのがぽっと生まれるのをみるとね、やっぱり、このひとはすごいなぁ~という感じですね。ちょっと、違いますね、ほかのひとと。
”アンジェリカ”がこのセンセイにとって、勝負の作であることはわかります(いちおう、わかるつもりです)、じゃあ、今回の作品はどうなのかといえば、CHJセンセイという、大表現者にとっての、余光のようなものですね。で、またそれがうまいことはまってる。よっ、待ってましたァ、天才表現者ァァァ。
二条くんの元カノ冴子ちゃんあらわる、で、厚みをまして、、、人間関係が層を成していくようかのですね。それぞれが意志的に人生的に独立した人間たちのかかわりが織り成すものの兆しがなんか、、、ありますね。個人の気持ち・こうありたいということがそれらを越えたものにおおきく左右され、あるいはたばたばと錯雑しながら、しかしそれがめいめいに、ほかでもなく還元されゆく、、、命運、その兆し、、、んなようなものが。恋なるものが、一身を賭した、人間をつとめあげることのけっこう大なる集約であるとすれば、このあたりなどが恋バナの、ひとの運命の軌跡が浮かんでこよう、やはり見所なのでしょう。一定の世界に組み込まれるうえで、ひとの気持ちが動く感じがして、いいです。二条くんは、冴子ちゃんは、七瀬さんは、かれらが組み込まれた全体の世界にあって、どう動いていくことになるのか。まあ、その、自分を越える関係と、自分という個人の思いのなかにある、ひとびとの、その兆し───(にんげんというものはキザすもんなんです)。
それにしても、ある場面、佐原くんたちがはからずも去ったあとにふいに生まれた(恵まれた)空隙のような時間はその保健室にて、ふたりは(あるいは)永遠を感じたんじゃないでしょうか。とか───。まあ、かかる永遠が外部の事情またその要員たる保健室の先生のそのままの無遠慮な闖入にて幕切れとなるのもいい感じなんじゃないですか。こういうことがなければ、ふたりの時間はそれで完成でもするよう、閉じてしまうかも知れませんから。無理やり、誰かがこじあけでもしないと<笑> 過ぎ去った経験が、いつか、取り戻されるよう、記憶のなかで再生するときに、ひとは、その自分の過ぎ去った経験がその瞬間が、ほかでもない、、、永遠であったことを知るのでは、、、ないのでしょうか。人生を果ての方まで歩いたひと、老いたるひとは、過ぎ去った自分のさまざまな経験の記憶にこそ、永遠を見るのではないかと(いや、見ざるを得ないのでは、と)、思ったりします。過ぎ去った、親しい、懐かしい時間は、永遠、の時空をひらくものでしょう。校内の一室にて、からだの触れ合いから、相手の温度を感じていたふたりには、そういう意味では、ふと、そのときに、永遠の瞬間───、といったものが、思わず知らず、訪れていたのかも、、、、、、しれませんね。
(開始・挨拶)───おはようございます、くれおです。
第2回漫画onWeb───最終審査───読者投票による、───結果発表。
放送(ユーストリーム)───午後8時くらいから。わたし、視聴。
300数十からの、───今回の、最終5編、残。───うちひとつ、知己サイコロンセンセイ。───応募作品名、『蝕の日、僕たちは舟に乗り』。
な、なんと、なんとの、1位(大賞)、サイコロンセンセイ受賞!!!
プラス、
放送に、サイコロンセンセイ自身、登場!!!───アソビに、あたまに鬼の角をつけていたっ。───当時のわたしの気持ち。わぁーーー、サイさんやぁ、はぁ~、こんなひとなんやぁ。ふえ~~~(いま思うに、水野英子さんっぽい<笑>)。
快挙、快挙に、相違無し。めでたいな。すごいな。活躍ええな。
ひとの活動(作品づくり)と、それに向かうコミュニティ的認容(社会的褒賞)。
賞・主催者、佐藤センセイ(プロのひと)。放送、手作り感満載、アットホーム、ゆるゆる、わけへだてない、、、空気感。よこにいるいつものおんなのひと。佐藤夫人も。
おとうとからのスカイプ受信により、視聴離脱。
おれも仕事、、、ちょっと、がんばろう(受・刺激)。
サイコロンセンセイも、ご自身の人生で負っている、そしてながらく負ってきたいろんなことが、創作という形で、ひとつ、花開いて(それが社会的に認容されて・今回のように)、よかったな。
3回目以降のネーム大賞の、
そして、サイコロンセンセイの、
これからのますますなる発展を───願います。
風邪っぴきミズバナ垂らし放題の<笑>
くれおでした。
土曜日に美容室にいったという、両側にくるくる髪を添えた七瀬さんのステキな笑顔からはじまった27の5話、かなりいいんじゃないですかね。ちょいとした、とぼけ具合、二条くんのコケのシーンもいいよ。あと、「腹減ったぁ───。俺ちょっと購買いってくる」「あー待って和田。俺も飲み物欲しー」とかもね、南国のトリ、、、<笑>には南国のトリの環境やそれに即した生活があるように、学生には学生のそれらが、、、ね、その、具体的な生活のニュアンスがいいですよ。彼ら目線になれますね。まあ、しかし、なんといってもの、七瀬さんと二条くんのやりとり。あやまるところとか、感動もんやね(ちゃんと、こころをひらけたぁーーー)。男子と女子の、ほちゃほちゃした感じがいいですよ。う~ん、よろしおすなあ。むずがゆい感じとともに、読んでいる身たるこちらも、こころがほぐれてきますね。まあ、基本、こういうもんでしょ。関係のしょっぱなって。どうしたって、浮き足立つ、、、。二条くんにむかって、ぽろっと自分の気持ちのほとんどそのままを口にしてしまって、恥ずかしさからでしょう、ひとり、帰りのバスのなかで体勢をくずし身をふるわせている七瀬さんの様子、とかね、すっごくいいですよね。そうやって、ちゃんと、人生に応じながら、逃げず、うけとめて、ひとって生きていくもんなんですもんね。どきどきしたり、ふるえたり、、、しながら。
ってな様子のぴかぴか光る、今回の第5話! かなりいいっ───んじゃないかとわたくし、思いました。
・「よい文学はよい自然人から生れる。しかして結果
いやぁー、ひさしぶりに、、、二条くんやら、七瀬さん、和田くんとかね、、、再会しました<笑> 読んでいて思うのは、やっぱ、活気があって、いいっスね。
ただいま読みました第4話では、二条くんのとも、佐原くんがなにげに活躍してますね。いいっスね。このバスじゃないはずのバスに、二条君に対してヌッとあらわれた佐原くん、「、、、二条はさぁ、相手の出方みる方じゃん」「なにそれ」(二条くん)「確信持てるまで動かないってゆーか、明らかに自分を好きだって分かる相手じゃないと攻めないしまとまらねーだろ。七瀬さんは今までの子みたいに積極的にはこないと思うぞ、俺はな。何をモメたかは聞かねーけど仲直りくらいは早くしとけ。二条が七瀬さんと一緒にいるのが珍しいのと同じで、七瀬さんが二条と特別仲がいいってのも珍しいんだよ。だから噂になりやすいんだろ。俺からは終わり。疲れたから次で降りるわ。──半年分はしゃべった」「えっちょ、待って佐原」、、、うるわしの言葉となっているんじゃないですかね。すっごく。また、そのちょい前、佐原くんが七瀬さんのこと好きじゃないのときいたら二条くんが「好きじゃねえよ」っていいはなったあとに裏ケンで二条くんの胸をドスっと無言でついてみせるのもとてもいい感じですね、みたところ。やおらの単刀直入なる質問に、表面的そして反射的には逃げようとする二条くんに対して、これは、いくらか重みのある挙措やっ。いってみれば、ともだちとしての、懐の深さ・冷静さといったものを感じさせますね。
あとはあれだ、中澤くんの行動、ね。行動───どころじゃない、”大”行動や。電話にて、の。
それを機に、あれあれま、ぽろっと出てきたんです、七瀬さんのおもいが───。
さらにはあれだ。妹さんの活躍、ね、一撃にして、喧騒を牽制してみせる、という、あれ<笑> あの”ドン”は強烈無比でしょ<笑> つねづね紡がれている兄と妹の関係が、そのまま、兄とその友人らに対する関係へとうつしもっていかれるような、あの感じ<笑> 直接あらわれはしない、けれど、黙って忍の一字、、、と耐えるのでもない──そこで自然発生する<笑> あの”ドン”、ね<笑> これもまあ、兄ちゃんのともだちのなかに気になるひとでもいたら、状況は一変するんやろうけど<笑>
わーい! 今年も『自転車』発進だぁーー。
たま~きくんのお父さんから依頼をうけ、たまきくんとあいつくんの部屋での様子をさぐる家政婦さん。部屋のまえで、紅茶とか、ケーキとかのせた(なんか、ティーポットみたいなのがいいですね)お盆を床において、こどものようないたずら顔にて、メモとってますね<笑> あと、たまきくんのお父さんが差し出すお礼<笑> あれ、いくらはいってねんやろ<笑>(2000円くらい???、、、いや、1000円? いやっ、500円かなぁ)。
はみはみにもきてもらいました! 『ちもちも』は小休止編。ついでに以前のも読み返してみたんですけど、いいですね。メンの疲れたってやつも、エレベーターのも、好き。こういうのが挟んであると、風通しがすくなからずよくなりますよねっ。
CHJセンセイのQ&A最新の、打ち出されてあったので、とびついて、読みました。、、、わたしは『アンジェリカ』大肯定ですよ。というか、CHJセンセイ大肯定派ですから。スキスキCHJセンセイ、ですから。ただ、CHJセンセイというそのひとを引き算して、作品だけで見る”アンジェリカ”、、、これはたぶん、つらいでしょう。なんていうんでしょう、ちょっと、純に過ぎる、、、っていう感じですかね。まあ、もう、いろいろ書きましたからね、”アンジェリカ”については。まあ、それでも、折に触れ、ちょこちょこ書いていくのもいいかも知れませんが(ちょっと実際にそうしてるし)<笑>
はい、今日のレオ様、、、ふたつ。「立派に費された一生は長い」、と、「あたかもよくすごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生は安らかな死を与える」、、、ほんとうにそのとおりなのかも知れませんねっ! みなさん、おはようございます。くれおですっ。
中田多哉センセイの『さいなむもの』が完結しました。
じぶんがはじめてこの方の作品に触れたのが、、、残ってる文章によると、、、去年の8月中ごろみたいで、それから、断続的に、、、読んだり離れていたりしたのですが、ふと、昨日、サイトをのぞいたら、”さいなむもの(終)”となっていて、えっ、終わんの!?とちょっと驚きました。もっと、ながぁ~くつづいていくのかなぁと勝手にどこかで思いなしていたので。早速、終末部分を読み、、、うなり、うなり、、、で、日あけていま、もう一回、一から、全編をとおして読んでみました。
あ、あと、『霜柱』という2ページのマンガも読み直してみたのですが。
中田センセイのブログはよくのぞいてるんです。飾り気を配した愛想のない感じで、しかし、必要なことがばしっと書かれてある感じで、ぬめぬめした雰囲気は漂っているんですが、骨っぽくていいなぁと。ブログの記事はどれも高水準なんですが、さいきんの記事なら、2011/12/24のなんか、出色の出来映えなんじゃないかと思っています。
マンガ更新の形態は、たとえば、CHJセンセイとかは、もう一挙に打ち出す、600ページだろうと、30ページだろうと、これはもうわが道系で、、、サイさんとか、あと、名前忘れましたけど、あの人とか<笑> SoNoさんとかもそうですね、毎日のように、1、2ページ打ち出す、で、読むひと毎日たのしいわいなという、これ、ひきつけ系、で、中田センセイはというとその中間くらいの感じで、ある区切りにしたがったまとまった量を6ページとか、12ページ打ち出す、、、まあ、実直系、ですね。
中田センセイの絵は、締まってますね、現実の方へ収斂してる。服装にしろ、車にしろ、ビールジョッキにしろ。もちろん、用田くん、そして用田くんの(軽薄・放埓そうな)お兄さん、同じ職場で働くひと、、、大森さんなる上司、南(?)くん、そして、中島さんなどもみんなそう。物語? 物語もそうです、ムダそしてそつというものがみあたりません。たいへん、現実的だ。会話もほぼそう。現実にそくしてる。見事に。浮きも沈みもしません。ほとんど。その点で。
不覚にも、用田くん(まだまだ若いひとなんですが)は、現実のあることにさいなまれております。これは、人生を行くひとの身にとって、闇のようなこと。
中田センセイは、”さいなむもの”において、なにかこの現実の闇を描いております。それはあんまり、、、甘くありません。闇、、、不透明であるということは、そこにその現実が横たわっていることを意味するとともに、また、そこにその、現実が横たわっていることしか、意味しないようなのです。これは、ひとつの闇として、読み手に、割り切ることを許さない、そんな境地のように思います。もっと、現実は、その現実が不透明であるということは、ぐじゅぐじゅしたものだ、といっておられるかのようで、それはなにかの闇です。闇そのもの、と割り切られるものではなく、、、なにかの。
ブログも絵柄もオハナシも、貫徹してます、、、的確で、浮かれというものが根絶している(もしくは根絶されようとしている)。
そしてその姿勢がいたる表現領野にて、現実の或る硬度とともに、現実の不透明感に到達している。それは粘り気のある、現実のぐじゅぐじゅ具合。灰色加減。多要因性。人間個体の中間性、非意志性、、、とか。人間のあれよあれよという間に気質(なんじゃそりゃ<笑>)、、、とか、ですね。中田センセイの実直な気質が、ひとつ、味わいのある作品をうみ落としました。これは、そう、、、たしかなこと。
『霜柱』は、あるたたずむひとの後ろ姿と、巨大なる足と霜柱的おもちゃ的な高層建築群との交錯が、気持ちいいです。いっしゅん、現実と夢との判断が失われる感じがいいです。それこそ、ひとりのひとの思いとして、実際的です。
───やりましたね、中田さん!
”さいなむもの”走破、おめでとうございます!
自分に害なき悪は自分に益なき善に等しい、、、おもしろい言葉だと思いません??? レオさまの本に書いてあったんですけど。おはようございますっ、くれおですっ。
ちもち~も、弟91話は3コマめが時空転換してるみたいでなんかよしっ。
いま、”タロウとノリコ”というやつを読んでます。もうすこし、なんかつかめたら、文章かいてみよっかなぁ、ってところです。
そそくさと、アパラ先生の『優雅で感傷的な中川慶一郎の日常』を。ん? ”神様機械”は保留で。ふと、これを。そういえば、連作だったんですね、これ。優雅で感傷的な、、、日常、これひょっとして、アパラ先生の創作原理そのものなんじゃないの。ま、感傷的はちょっと置いておいて。優雅、かつ、日常、これ。ちょっとそんな気がする。余裕的な日常、というかね。ふと。んな感想が。内容的には、作者を軸にしたときの、余裕の産物、という感じ。ともだち間の、じんせいのあそび具合、ゆるみ具合がいきてる、、、って感じ。
”アンジェリカ”は秘密境にある絵解き物語、、、雪に覆われた、、、。
あっ、そうそう、はみはみのこと迎えにいかなくては。
すこし前になりますが、『神様の機械』、、、第4話が、、、河原野アパラせんせい畢生の大作ですが、、、完成・成就にいたったようです。あとがきだけ読みました。本文は最後手前の、ところまで、前はそこまで出来上がっていた、、、そのところまで、読んだかぎり。また、読みますね。アパラさん、完成おめでとう! やりましたね。すがすがしいもんなんでしょうね、そこは、やっぱり。じっさい的労苦は想像だにしかねますが。なにせ描かないもんで。まんがをね。
サイせんせいは、もうすぐ、このあいだの、賞の結果が、、、出ますね。めりはりが出ていいですね、生の時間のありように。こちら去年につづく平坦路。
ああ、べっこう之あめセンセイの悠久ロマン戯画超大作マンガ『ちもちも』は順調のようですね。優等ですね。においをちもちもの口からいわれるもゆもゆセンセイのうしろ姿、哀愁がただよっていますねぇ、というか、あれ、もはや、もゆもゆセンセイでもなんでもないですねぇ。ちもちものかきぞめは、いきおいがあっていいですよねぇ。ほんと。視点がなんか、微妙に変化してたり。紙が手前に向かってびよーんってひろがっていたり。文字がおどっていたり。あ、あと、いぬのやつ、はみはみ、、、やったかなぁ、こたつで寝てるのが、まぁ~~~気持ちよさそうやったなぁ。それ、平和的・生活的しんぼる、決定。
あけましておめでとうございます。くれおです。
しかし、ことしももう、あと、あますところ350日ちょっとしかないと思うと、心細い、、、ですねぇ。ことしもよろしくお願いします。
”神様機械”はねぇ、まあ、いいですよ、やっぱり、ねぇ。ん、、、?
SoNoセンセイの『海のマリア』、、、でしたっけ、快調みたいですよ。どんどん進んでるみたいですよ。そうですねぇ~、やれるもんならやってみやがれ! って感じでねぇ、きっと、やりとげられるのでしょう、そりゃあ。ガンバっ。って、おれにいわれるまでもないか。SoNoセンセイみずからやりたいわけやし、やらざるを得んわけやろうし。そういうもんでしょ、ものづくりって???、、、ちがう? あ、違うかもね。んだんだ。
おしまいに、いまよんでる本に出てきた、有名な科学者の言葉でも引いておきましょうか。、、、、、、、、、、、、、、世界について永遠の謎は、世界が理解しやすいことである。、、、、、、、、、、こういう言葉がある程度、じぶんの人生その実感のようなところから、わいて出てくるような時間を重ねていきたいものですねっ!
宇宙か、エジプトとかに行きたいなぁ~。
それでは、またっ。ゲイシュンくれおでした。
みなさん、どうもっ! くれおです。年もあけましたね~、まんまと。いってみます? いってみますぅ? やってみますか?、、、そうですか、それじゃあやってみましょうか、ひとつ。
作品、、、読みました。『アンジェリカ ~少女に捧げられた無償の愛~』───。
西洋のひとをかたどったような、んで、お人形さんのようなひとたちが出てきますね。ウインターハーツ・ナイト、というのが、街の名前ですね。雪がまあ~降ってます。ふかくふかく。なんどもなんども、その季節のあいだは、果てるともなく、、、。寄り合う家たちに、木々の枝ぶりに、葉に、───。それは白くて、白くて、視界なんかをおおいにかすめさせるようでいて、ひややか、、、なのでしょう。きっと。あらわされる画面をみていて、気持ちいいですよ。つめたくて、わりと、単純で、汚れというものがみあたらないような感じで、あるいはそういったものをないがごとく覆いさってしまったことがちょくせつ、ひとの世における、雪の世界へと変貌を遂げてしまったかのように、、、、街は、そして街のはずれなんかも、そんな、白くて冷たい雪にまあすっぽりと、包み込まれています。
アンジェリカという少女は、あるときから、世界をさすらっておりまして、雪景色のなか、その、ウエンターハーツ・ナイトに行き着く、、、。
読みました、わたし。いいたいことを言ってみましょうか、この際。いろんな言葉、感想があたまを去来してるんですけど、、、まあ、いろいろ言っていってみたいと思います。
そうですねぇ、、、作者センセイの、この作品に関しての、製作について漏らされた言葉をまず、紹介してみたいと思います。
本作「アンジェリカ ~少女に捧げられた無償の愛~」、
実はこのサイトが世に公開される前からずっと製作してました。
構想、ネームにおよそ半年、
そしておよそ3年かけてじっくりと描いていました。
ここ数年のライフワークとも言うべき作品です。
もうひとつ。センセイのブログから。
正直言ってこれまでとまったく異なる作風で滅茶苦茶難しかったですね。これまで身に付けてきた技法全てを白紙に戻して一から学び直すような感じで、何度も挫折して次はポコチン君が大活躍する冒険譚を描こうと思いましたが俺にインスピレーションを与えてくれた先人達が唯一教えてくれなかった事が「諦める」という事でしたからね。まったくクレイジーだったよハニー。
”構想、ネームにおよそ半年、そしておよそ3年かけて”とか、”技法全てを白紙に戻して”とか、”何度も挫折して”とか、これらの言葉に浮かんでくるようなものって、やっぱり、すごいですよ。
歳月、でしょ、それから、得てきたものを捨て去ること、とか、で、うまくいかないこと、とか、人間にとって最大限可能な、冒険の縮図があるんじゃないですかね。この作品、そういう意味じゃ、センセイの比類ない、、、冒険の記録ですね。
なにがすごいってね、このセンセイ、、、まあ、CHJセンセイなんですけど、そんじょそこらのひとじゃなく、たとえばひとつの表現の方向として、『エイリアン & ジェラントフィリア ...アンド ザ ジョックス』みたいな作品のレベルにまですでに達している(あるいはそれに準ずるもの、である)、にもかかわらず、そこから、、、ですよ、いままで積み重ねてきたものを白紙に戻して、それこそ、今回に関しては下劣表現なんかをいっさい封印して、挑んでやってるわけですよ。
こういうのって、活動能力の旺盛さ、ともいえるし、通常の原理からははずれた率直さ、やとも思える。別の原理で動いてるなぁ~感、ですね。一旦、到達した、築いた、自身の武器という武器を捨ててしまっていますからね。これは容易には出来ないことなんじゃないですか。
でも、そうやっていろいろ聞くと、ですね、もうふたつにひとつ、ですよね、わたしに出来ることは。作者センセイの勇気に呼応して、こちらも勇気をもって発言するか、それができひんねやったら、完全に黙っておくか、ですね。で、わたしは、書くの躊躇したし、いまでもうじうじしてるし、あんまり気持ちはのってないんですけど、じゃあ、作品としてどうか、というと、まあ、、、失敗作、ですね、これは。もちろん、CHJセンセイのこの大作を、こんな言葉だけで済ませようとは思いませんが、まず、とりあえず最初に、成功か失敗かのいずれかを選ぶとするならば、ということ、ですね。
CHJセンセイの冒険の結果、この作品でなにが起きているか。名づけてみましょうかね<笑> ”正直な退行”、とでもいってみましょうか。
この”アンジェリカ”という世界、純粋に、敬虔に、そしておそろしいくらいなまでに、幼稚です。まるで幼い。ただし、かかる幼さを邪魔するようなものがほとんどみあたらない。これって、どういうことなんでしょう。作者センセイのものづくりの姿勢が、率直で、正直なんです。ふつう、もっと、なんとかしようとすると思う。そして、そういったものが、ある世界の阻害因としてあらわれたりするのだと思います。、、、が、あんまり、そうはなってないですね。アンジェリカの幼く、純粋な世界へ、CHJセンセイは身を捧げ、おりくだっていってますね。
幼い、、、たとえば、絵柄について、言及してみましょうか。アンジェリカをはじめとする主要人物の像は、はじめにいったように、お人形さんです。もう、そのまま、お人形さんです。そうですね、たしょうは動く、、、可動式の、といったような。ちっちゃい子がもって遊ぶ、お人形。もうこれなんか、記号に近い。ひとの記号としてのお人形。目が、にじの型に描かれます、うれしいとき、また、悲しくて、涙を流すとき、、、。このさま、目の表現としてのにじ型は、うれしい、の、かなしいの、ほぼ、記号です。
ガーネット、と、アンジェリカに名づけられる小鳥が出てきます(132ページ)が、この小鳥の様子はなんでしょう、なんにも武装していませんね、そのまま、描かれ、こちらがわ(読者)に、さしだされようとしていますね。たとえば、ある程度人生を経た人間が、”アンジェリカ”のような作品をつくろうとしたときには、もっと、武装してると思うんですよ。それは、足し算ベクトルの表現、ですね。ところが、CHJセンセイのこの作品は、引いて引いて引いたすえにのこったものが繰り延べられている世界、のように思えます。だから、ひとびとも、そんな小鳥とか、犬とかも、飾り立てや作者の主義主張を感じさせない、純粋な───記号のほうに、近づいている。
いつものブットンダ表現はどこにいったんでしょう。そういうものを、消し去ることに成功している。いやむしろ、それは、いつものブットンダ表現のほうが、ひとつの純粋性であったことをわからせてくれるほどに、、、といってみてもよいのではないでしょうか。いつものあるしゅの表現の過剰性は、”アンジェリカ”における純粋への表現の過剰性です。純粋への志向は、そのまま、幼児性の境地にまで突き抜けていっているらしい。物語は、極度に抑制が利いていますね、ばたばたしていません、しずかなもんです、針を振り切るようなことがない、作者において、ほかでもないかのセンセイたる身において、耐え忍ばれている世界───、雪景色がきわめて特徴的(印象的)で、それが包む白い世界、汚れなき世界で、表現されるというよりは、壊れないように、しずかにたたえられるようさしだされる世界、といったところ。その、扱う手つきの違いは、明々白々たるものでしょう。───というより、ですね、いつもの作品とどうやら通底しているらしいのは、”アンジェリカ”においては、純粋世界の方で、ある意味、まっすぐに、ブットンダ表現がなされている、ということでしょう。
もともと、わたしは、物語としては、CHJセンセイの作品はいいものだとは思っていません(いや、そんな単純なことではないですが、、、”デスメタル”のときには、そのまま、感動しました)。”スモウ”の話のときとかに、それは、いくらか言及したように思います。つぎに、そのことについて述べてみたいと思うんですが、物語というもの、お話というものを、ふたつに分けて考えてみようとするとき、内的、と、外的、という、区別をしてみたいと思うんです。内的、は、作品が作品として生きている様子、作品が内部的に存在する、有機的に成り立っている様子、だとすれば、外的は、組み合わせ的で、非有機的で、作品が内的な存在理由をもっているようには思えない様子、みたいなことです。CHJセンセイは、じぶんの物語は練りに練っている、みたいなことをおっしゃっていて、わたしには”スモウ”のときなんか、よっぽど、それは消化できない言葉だったんですが、いまでは、わたしのなかではすこしは整理がついていて、わたしの感じるCHJ作品の物語性は、いつも、つぎはぎ的で、素材について組み合わせ的で、外的、なんですね、なるほど、『DEATH METAL』にしろ、『チン拳』にしろ、『OH-GON 黄金』にしろ、外的物語としての優秀性が欠如しているとは、これはわたしも思いません。たぶん、よく出来てるんじゃないですかね。それに、おそらく、わたしは、以前の文章でこういうこともいっていたと思うんですよ、CHJセンセイの作品は、マンガとしての統合理念が希薄で、マンガごっこのように思える、とか、表現課題が無い、迷走しているのではないか、とか、、、これは、いまのわたしの強く感じている言葉になおせば、そのもの、内的な存在理由が感じられない、物語は、おおく、その立つところが外的である、ということ、ですね。パーツパーツを組み合わせるようにして成り立っている、、、非有機的で、外付け的、だったりするんですね。作品のなかから湧き出す物語がない。外的、ということは、物語が形式的、記号的、ということです。あんまり血が通っていないんですね。そこで、今回の”アンジェリカ”はどうなっているか。
登場人物に、わたしは性格をみとめることができません。ほんとうに、泣いたり、笑顔をみせたりする、お人形です。表現は、血の通っていない、記号です。作者の純粋世界への挑戦は、純粋なさまざまな要素をちりばめる、そして、それは純粋の過剰なる様態、、、すなわち(なんと!)幼さにまでくだった、外的につまり形式的につむがれる物語によって成り立つ世界、となっています。これは、CHJセンセイの、おそらくは表現、そして、ものづくりへの、率直さです。むしろ、汚れがないのは、CHJセンセイのこの、ものづくりの姿勢なのではないでしょうか。もうちょっといえば、漫画よりすこし退行して、物語と挿絵、の世界に思えることがたびたびありました。この世界に、生活感はいっさいなく、生活に根をはるひとの生命のちから、土着性みたいなものは、まるでありません。アンジェリカをはじめ、登場するひとたちに血の気は感じられず、なんどもいっている人形のような、そう、幽霊のような、または、こころの像のようなものとなっています。絵本の世界、幼児的であるまでに過剰に純粋な世界、、、ここには、作者はなにも飾り付けるようなことはしていませんが、そのまま、なにもありません、感情や、無償の愛を透過した、それらさえ純粋化されている、こころの像のような世界がひろがっています。登場人物のお人形さんぶりと並んで際立つのは、街の、木々の、なんとまあ、その雪景色の美しさ(説得力)です。マンガ表現において、内的物語が欠如している傾向をもつCHJセンセイの作品にあっては、白い雪につつまれる街や自然の様子は大変うつくしいものとなり、しかしそれがひとたび人間というものを描こうとすれば、記号的で、性格喪失的で、お人形的となります。これは、冷ややかで厳かな客観的物質に対応していて、かかる、物質の領域を逸出するようなひとの領域に対応していない、みたいなことを意味しているのではないでしょうか。まあこれも、はっきりと断言できるわけではありません、機会があれば、また、以前感動した───”デスメタル”、や、そして”チン拳”、などを、ぜひ、読み返してみたいと思うのですが、、、。おれからいわせれば、外的表現形式としては、『エイリアン & ジェラントフィリア ...アンド ザ ジョックス』で、その絶頂に到達している気がしますけどね。CHJセンセイの作品に含まれている主要な成分は、もちろん、そもそも作品というものを見通す批評眼そして感受性というものと、それをいざ自ら作品に押し立てることのできる絵のちからと、そして、これもみずからつむいでみせる筋書き、ということになるでしょうが、どちらかといえば、外的原理の気配がつよいですね、そこにいる、というよりは、そのそとにいる、という感じ。そして、もうひとつおおきいのは、ものづくりについての、率直さ、正直さ、旺盛さ、これらのようなものです。どんどん、そうやって、自身を磨いてこられたのでしょう、わたしは去年、この作品が発表されて、まあ、センセイ自身がかねてから予告されていましたが、今回の作風というものに驚いて、で、614ページとかいう巨大作をよみはじめ、で、400ページくらいまでいったんですが、そこで中断したまま、年を越し、で、また、読もうと決起して、時間があいたんで、またはじめから、結局昨日と今日で、ゼンブを読みましたけど、この作品を、センセイが3年半とかかけて挑んでこられたということを思うと、なにか、すさまじいものを感じますね。ちからをもつひとの3年半、ですからねぇ。だから、もう完全にだまっておくのか、言うんやったら、こっちも、あるしゅ自分の人生をかけて、ものをいわないといけない、と思いますよ、そりゃあ。わたしは、この作品づくりという、CHJセンセイの生命力に、こころを衝かれますね。月日も、それにともなうひとりの人間としてのこころも、からだも、大抵のものじゃないでしょう、そこに、注ぎ込まれたものは。
ただ、作品としては、魅力に乏しいものじゃないでしょうか、”アンジェリカ”は。いつものCHJセンセイの暴露的で下品な表現の過剰性(あるいは過剰的な表現性)をよろこぶひとは、この作品を読み通せないでしょう、この作品の、純粋表現のその過剰性を。だって、その過剰性は、絵本的で、平坦的で、人形的な、血の気の通わない世界をちょーまじめにかたちづくろうとしているばかりなのですから。とても、ついていけないでしょう。一方、純粋なものを求めるひとにとっても、これは、つらい作品や。この世的ではないから。人間の世界の説得力をまるで持たないから。人生を踏まえているひとは、この作品ではちっともこころをうごかされない、、、その可能性がつよい。あんまりおおくはないだろう、想定される読み手は、いっさい、先入見をもたない、ちっちゃい女の子(お人形さんのその形式的な美しさを、純粋に愛好できる人間)か、あるいは、わたしのように、熱烈にCHJセンセイ自身をおいかける人間(つまり、ただその作品、というだけではなく、CHJという表現者の作品、という形で、作品をその他の表現と文脈的・関連的にとらえようとする人間)、、、なんかに限られるでしょう。そのわたしにしても、ですよ、読んでいる途中で、なんども、読むのをやめたいと───正直思いました。ただ、CHJセンセイの作品を読むのを途中でやめて、ほかにオレが読む作品なんかがあるのか、と自らを問う声が起ころうとしてきて、放棄することをやめましたケド。わたしは、CHJセンセイがちからをこめたこの作品について、だまっておいたほうがいい、という気が強かったです。けっして、成功してはいないと思うけど、この作品は、ある意味、とても示唆的です。それは、CHJセンセイがマンガ表現というものにおいて、なにをしているのか、ということについて。なにか、この方は、率直で、正直なんでしょうね。それは、なかにあってきちんと所属するというよりかは、そとがわからの表現、になる。定住的安定的表現である、というよりかは、徘徊的・彷徨的表現形式、そして、多重的・実験的表現形式となる。たとえば、地球がひとつの内的なものであるとすれば、CHJセンセイの表現は”宇宙より”のものです。”その外”を感じさせる表現ですね。そして、漫画というひとつの形式にあっては、漫画の外を感じさせる。世界にあまり所属しない意識的様態その率直さにあって、ひたすら単独的につづけられるものづくりその結果は、内的な物語構成に反し、外的形成として高度な芸術となっているかのようです。この作品は、作品としての不出来とともに、意味深い作品でしょう。この方の、別原理的、単独原理的な、創作への率直さが感じられるから。それはむしろ、天才的に純粋にちかいものだ、という気がします。わたしはCHJセンセイの存在のしかた、創作の姿勢に、あるしゅの超俗的な天才性をみとめます。そういったものが、この作品にも、きっちり刻印されている気がするんですね。、、、しっかし、単純な作品その読み応えとしては、退屈です<笑> マジで<笑> ともかくも、CHJセンセイ研究の資料としては、第一級のものだとおもいますけど。
雪の白さは単純にうつくしい、それがかかる家も、街も、木々も。して一方で、人間の性格もおなじく雪におおわれたがごとく、白いです。なかに管あり管とおる血があるようにはとても思えません。アンジェリカがみせる、あるいは、アンジェリカに向けられる、、、無償の愛も、おなじく、白っぽいですね。ひとの血を感じさせない。それは人間らの血のそとにあるといっていいような、抽象的なオハナシ、、、その様子からくる、といっていいのでしょう。
『アンジェリカ ~少女に捧げられた無償の愛~』───、そこには、CHJセンセイという、巨大な表現者の白っぽい世界が、、、、おおきく、おおきく、、、あたかも作中の雪原のごとく、ただただひろがっているようです。白さ、、、その見た目に反する形での、才能ある作者の、製作への情熱(真摯さ)という痕跡をうちがわにとどめ続けながら。