猪原さん世界批判


・はじめに。私はよく言葉をイメージで使います。
 批判というのも、たぶん、ちょっとほかのひとが思うのとは違って、私のイメージの 内では、「なるべく、原理的に感応する」、っという感じで、さらにいえば、作品とい うものが成り立っているその原理性に接近する、みたいな感じで、もっと短く簡単にい えば、けっきょくのところ、賞讃です笑(それがそれとして現にあることへ、の)

 で、こんかい、そんな意味合いでの、猪原さん世界への、批判を試みます。
 何故、そんなことをしようとするのかといえば、読んで、単に私自身、すごくこころ が動かされたから、ということになります笑


一)

 猪原さんがつむぐ、「二人は旅の途中」という世界で、マイコーとケンちゃんが冒頭 、出てきて、車の中で、サングラスをふたりとも、かけていますが、つぎに、ふたりは サングラスを外して、家づくりに供する、木材を運んでいます。驚くのは、幼稚絵とも とれるほどの、サングラスを外したふたりのカオの単純さです。なんだこれ、っていう くらいの感じです笑

 表題のまんまで、このふたりはつれだっての旅の途中の身、なんですね、ところが、 どうしたわけか、家をつくろう、ということになる、で、その理由というのは、そこか ら「見える景色が最高だった」から、というものなんです。
 どうでしょうか。、、、旅をしている途中で、いきなり家をつくりはじめる理由、、 、というか、動機として。それって、アリなのか、ナシなのか? でも、そこから見え る景色はサイコウだったのだという、、、それならば、まあ、いいのか? 世間で、百 聞は一見にしかず、ともいうので、それならば、じっさい、かの創造主がひらく景色を みてみるのもいいのかもしれない。大きく、披露されていますから。ただ、その場合には 、そこにたたずむ(こちらに背中をむけた)ふたりの主観も込みで笑 ぜひぜひ。
 う~ ん、、、そんなにはっきりしない画面として、ぼやぁーー、とひろがってるものじゃな いですか、いいとも、わるいとも、特段、なさそうな笑 けれども、人間各自の好みと いったものが、ときに、そんな風に目の前の対象に宿ったり、通ったり、、、するわけ ですよね?
 (自分が)好きなものは好きだ、うまいもんはうまい、なるほど、好みは直通的に、 ともいってよく、そのひとにとって、容認されている、目の前の景色は、家をつくる動 機として、これまたごく単純に、ふたり(マイコーとケンちゃん)からして、容認され ている、というだけのことかもしれない。おそらく、まあただそうあるだけ、なのでし ょう。


二)

 家をつくる。
 魔法をつかって突然完成品を現前させる──といった例の、飛躍が非現実的で、実際 のものではないとなって、それでいて、なお、じぶんたちの家をつくるとなれば、可能 な(現実である)この世のルールにのっとって、わたしたちはとり行うことになる。こ の世のルールとは、目の前にある、またわたしたち人の周囲を取り囲む、すべての、そ してひとつひとつの「物」、ですよ。「物」が「在る」、っていうのが、現実の世界で 、その「物」こそに、ルールが通っている。
 彼らがつくろうとする家には、家という物としての(現実の)ルールがある、なにか 物をつくろうとする場合、この、ルールにそった人間であること、が求められてきます 。逆の視点でいえば、その丁度必要な分だけが(家建築に)求められるのであって、そ れ以上のものもそれ以下のものも一切、求められはしないでしょう。
 ある「物」の成立(それをつくりだすこと)に際しては、ただ人間は、その「物」の ルールにそい適合し存在しつづければよい、わけです。
 猪原さんは、家をつくるその様子つまりは家という物の成立の道筋を、たどっていき 、表示します。
 それは、物のルール、ふたりの人間がそう物(そして物づくり)の道、です。
 家づくり、そして、家成り立ちの、ルール──その表示、マイコー&ケンちゃんらの、 じっさいの様子。


 まず設計図を
 材料を調達し
 ドアももらい
 足りない材料を

  工具もたくさんあり
 段取りを決め 
 工程表ができ

  マイコーが印をつけて
 ケンちゃんがカットし

 木に穴をあけ
 建物の基礎をつくって

 骨組ができたところで今日の作業は終わり


  三)

 わたしたち人間の身体は、物です。家とかの、物をつくったりする、そんな物なわけ です。わたしたち人間は、身体という、現実のルールの通った、、、物です。ただ、家 とくらべた場合、家というこの世のルールを通わせる物がおよそ黙っているようである のに対して、人間つまり身体というこの世のルールを通わせる物たるわれわれは、いろ いろ言います。
 そこで、ただ家という物をつくる、すなわち、家という物が通わせるルールに<自ら のぞむように>したがう形で時間を過ごそうとする場合、身体という、物たるルールを 超えてとかくいろいろいいたがるその人間の部分が、よほど削がれ、単純化するのだろ う、ということがいえるかと思います。
 人間、そう身体という物であること、を、わたしたちはしばしば自分たちでも気づか ないうちに恒常的に力んでやっています、といいますか、わたしなんかよっぽど思い当 たるわけなのですが、あくまで、単純な物以上であるかのように、まあ結果として気負 って、人間をやろうとしている状態になっている、というようなこと。それが、さきに いった、われわれは、いろいろ言います、という言い方で含めようとした内容です。そ ういった、方向性に対して、ただ身体というこの世のルールを通わせる物であること、 そういったたたずまいに近づけば近づくほど、力が抜けている、力みがとれ、人間であ る身体という物のほうへ、脱力している、という状態になっている、ということがいえ るんじゃないかと思うのです。

 さて、わたしたちにとって、顔というものは(相手のも自分のも)とても大事でしょ う、まあ、いろいろと大事であるわけですが、そのいろいろは顔というルールを通わせ る単純な物の範囲から、おおきく、その「いろいろ」の方向へと、傾き逸れている。そ れはよく身体という物が非脱力的である、まあいわば象徴みたいなもんでしょう、猪原 さん世界の開始早々、サングラスという物に覆われたふたりの顔が、つぎにはがされ突 然によくよく単純であるのは、(ひとの)顔は顔という単純な物に過ぎない、という、 また、顔に宿る、それが物以上でけっこうある、という、人間の意識的利用的意味世界 からの、単純な物への指向・脱力への、ひとつの導き、とみていいでしょう。


四)

 単純な人間への進み方として、猪原さんの表現世界の中心にでんっっ、と据えられて いるのは、今回の場合の家、また家づくりなのであり、物という、単純性、そして中立 性のほうが、物以上であるような、人間の解釈、意識、それら、いわば人間の力んだあ りようが生み出す世界に対して、優位的で、中心的となっています。マイコー&ケンち ゃん、ふたりの人は、物への志向すなわち脱力を(すでに)体現したまま、ごくごく単 純なその目鼻だちにて、物以上である、力んだ様態からはいかにもみがるそうに在り、 また、それをさらに、現にのぞんで進行させつつあるかのように(より、物となろうと する過程をわたしたちに示しでもするかのように)、自分たちのおそらくは単純な生の 流れが生んだ目的たる、家という物のルールに忠実に、欲するそれの製作へと、飛び込 んでいく、そんな風に、じっさいに生きるすがたをみせているようなのです。
 マッドプロフェッサーズ、、、ふたりの家づくりにはいる複数の人間からなる、邪魔 者たち、ですが、かれらはふたりの人間の目的からして、たいへんに都合が悪い、目的 の達成を邪魔されるのは生きる人だれしもの不快、不幸、なのだとすれば、ここに人間 を主観にした、持続的意味・いわゆるストーリーが生じようとします。しかしどうでし ょう、猪原さんのその様子というのは、そういった、ストーリーが浮き上がるように、 深くは決して立ち入ろうとしないのではないでしょうか、軍団の妨害は、ただ、ふたり がその軍団の構成員すべてより強かった、という単純性の示しにおいて収まりがつきま す、強いだけじゃ解決しない不死身のゾンビがつぎに登場するについて、発想の転換で 腕っぷしでなく、どうやらその、不死身の原動力のようなうしろのケーブルを切って、 それで終わりです。物(づくり)の周辺にて巻き起こる人間ごと、人間たちの世界のス トーリーは、あくまで、そのようにかるがるとながれていきます。起こること、ただそ れはそれとして起き、ながれていくばかりです。
 ひとの営みが、けっして、無いの(虚無とかなの)ではない、しかし、まるで、ある 、わたしたちはたしかにこの世界を生きている、と気負うほどでもないかのように、物 事はながれていくようじゃないですか? けど、これなんか、単なる都合のよい、ひる がえって都合の悪さから骨をぬきとった、真剣に生きることを忘れたような、空想的な 、そんななにかふにゃふにゃした様子が、ただ示されている、というようなことなので しょうか、、、? ああじっさい、そうかもしれません。また、そうでないかも、しれ ない。少なくとも、かれらが家という物づくりを完成させないようなひとたちであった とすれば、この世のルールを通わせる物、そして動的な物の成り立ちゆくさまに謙虚な すがたをもっているひとたちでなかったのだとすれば、よくよく、そうであった気配が 、より濃厚だったはずです。

 人間ごっこは、人間ごっこの分のなかで。
 相手のすきをついて、カンチョーすることのよろこび、されることの、わっというお どろき、だれかにヘン顔してみせるこころ、だれかの、ヘン顔に遭遇するこころ、な どなどを、忘れたり、捨てたりするともなく、時をすごし・ながら。
 この世で、ルールを通わせる、人間という、身体という、単純な物。それへの、ちか らの抜き方が、ここにはじつに、魅力的に、おおいにおおいに、たくさんに花開き、息 づいているように思います。猪原さんがわれわれにひらいてみせる世界、達している表 現というのは、きっと──生半可なものじゃない──、私には、そう思われるのです。